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君を待つ町

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「まだ曲あるからさ、もう少し聴いて行く気持ちない?」

私はうなづいて、もう一度同じ椅子に座りなおした。
彼女は、楽譜を新しいものに変えて、何かブツブツつぶやきながら、呼吸を整えたかと思えば、あ、と何かを思い出したように声を漏らした。

「何?」

「私、3組の笠原瞳子(かさはらとうこ)」

「私、1組の入谷真智」

「…だから、知ってるってば、入谷さん?」



彼女―笠原瞳子との出会いは、こんな風にちぐはぐな会話から成り立つものだった。
毎日彼女は、4時半にピアノを弾くためにここ、第2音楽室へとやって来ていた。
今まで会わなかったのは、私が4時半以前に家に帰っていたからだったらしい。
その日以来、私は彼女の弾くピアノを聴くために、4時半以降まで部屋に残るようになった。
特に言葉を交わすこともなく、淡々と彼女はピアノを弾き、私はそれをバックに時間を過ごす、その繰り返しだった。

「ねえ、家に遊びに来ない?」

「いいの?」

「家、ほとんど誰もいないから、いいっていいって」

彼女がそう言う理由を、私は単なる両親の共働きだと思っていた。
だけど、彼女の家に行ってみて、ようやくその意味がわかった。
彼女の家は、学校から歩いて30分近くかかる山側にあり、大きな門構えの前に数名の和服正装の男性が並んでいた。

「おかえりなさいませ!」

びしっと軍隊のように揃ったお辞儀に身をひるませた私とは対照的に、彼女は笑顔で手を振りながら玄関へと進んでいた。

「はいはーい、ただいま。…ごめん、怖がらせちゃった?」

「ううん、だ、大丈夫」

ぺこぺこと頭を下げながら、私も進む。
旅館のお出迎え、とは種類が全く違う気がする。

「うち、極道なのよ。形だけの」

いつものようにへらへらっと笑いながらあっさりと彼女は言う。
形だけの、の部分は気になったけれど、その理由は後から分かることになる。



言葉を悪く言えば、家の中は外よりは寂しいものだった。
がらんと入れ物だけが大きくて、中身が少ない、そんな表現が正しかった。
家具が少ないのにだだっ広いリビングに通されて、カバンを置きに行ったらしい彼女を待っていた。
彼女は、制服を脱いでジャージの下にシャツ姿というラフな姿で、ポテトチップスとバームクーヘンを抱えてやって来た。

「あ、お茶入れるから待って…」

「おおっ、瞳子の友達か!?」

妙にハリのある老人の声が聞こえて、私はついしゃきっと背筋を伸ばしてしまった。
ズダンズダンという恐竜のような足音とともにその声の主は姿を現した。
昔の人にしては立派すぎるほどの背丈と肩幅で、和装がよく似合っている。
男性に目力があるというのは変な表現だけれど、時代劇の役者のように鋭い眼をしていた。

「おじいちゃん、お願いだから入谷さんを威嚇しないでくれる?」

「入谷さんと言うのかね?」

「は、はい、入谷真智と…」

「そうかぁそうかぁ、瞳子と仲良くしてやってくれなぁ。よしよし、じいちゃんが茶を入れてこよう」

そう言いながら、鋭い眼を下げて、小さく歌を歌いながら彼女のおじいさんはお茶を入れにキッチンへと向かったらしかった。
ごめんね、と彼女は耳打ちしてから、がさがさとポテトチップの袋を大胆に大きく開け、バームクーヘンをまたまた大胆に半分にちぎって私に手渡す。
バームクーヘンにかじりついては次にポテトチップスをかじり、足を開いてリラックスしきっていた。
見た目はいかにも女の子らしくて、弾いているピアノの音は繊細なのに、彼女の行動はいつもどこか大胆だった。

「お茶入れてきたで、ほら、真智ちゃん、飲んで飲んで。頂き物の羊羹もあったから切ってきたで?」

「あ、ありがとうございます」

足取りも軽く、おどるようなステップで彼女のおじいさんはお盆にお茶と羊羹を乗せてやって来た。
お茶は程よい熱さで味もよく出ていたし、羊羹は綺麗に3切れずつ皿に乗り、竹でできた楊枝が添えられていた。
おじいさんの方は、彼女とは逆に、見た目とは違って丁寧だったようだ。

「ええと、それじゃあ、じいちゃんは向こう行くけど、また遊びに来てやってくれな?真智ちゃん」

「はい、また来ます」

「うんうん、それじゃあな?」

おじいさんは何度も私に頭を下げながら、奥の部屋へと引っ込んでいった。
彼女はバイバーイとおじいさんに手を振ってから、またバームクーヘンをかぶりながらお茶をすする。

「うーん、紅茶の方が良かったかな」

「おじいさん、素敵な人だね」

「あれでも組長よ?」

「ぽい気がする」

「だからダメなのよね、人情派はもうヤクザの世界じゃ流行らないのに」

彼女はそう苦笑いしながら呟いた。
私はそんな彼女と部屋の中をぐるぐると順番に見まわしていた。
映画なんかのイメージだと、そこらへんに歴代の組長の写真なんかがあるものだけど、部屋の中はこざっぱりとし過ぎていた。
棚の中に写真があったけれどそこに写っていたのは、彼女のおじいさんと彼女のお婆さんらしき女性と、それに赤ちゃんとその両親らしき男女だった。
赤ちゃんはまだ産着姿、男女は共にスーツとワンピース姿で、おじいさんとおばあさんだけ和装だった。
赤ちゃんの丸いくりりっとした目には、見覚えがある。

「それ、私なの、真ん中の抱っこされてるやつ」

「やっぱり。じゃあ、この2人が、お父さんとお母さんで、後ろの人がおばあちゃん?」

「そう。見たこともない、お父さんとお母さんとおばあちゃん」

ゴロゴロとカーペットの上に転がりながら、彼女は笑う。
笑い事じゃないだろうに、と私は思いながらも、写真から目を離す。

「おばあちゃんは病気で死んじゃって、それからお父さんとお母さんは殺されちゃった」

「殺された?」

「この組、もう時代遅れでさ、カタギには手を出さない、拳銃は持たない、クスリは売らない、弱きを守るって。だから勢力乗っ取ろうとした別の組の人に、家を出たところでね。おじいちゃんと私だけ後から出てきて、助かったみたい」

「…映画みたい」

「素直な感想だね?でも本当、映画みたいだよ。もう組の人も次々と引き抜かれて、さっきお出迎えしてくれた人に、ほら、庭で水やりしてる清春さんぐらいになっちゃった」

リビングから見える立派な庭で、1人の背の高い男性が頭にタオルを巻いてホースで水まきをしていた。
その男性は、振り返ると先ほどの人たちよりもだいぶ若く、どちらかというと私達の方が年が近いのではないかと思えたくらいだった。
庭を見ているこちらに気がついたのか、清春さんは私の方を振り向き、会釈をした。
顔立ちが端正で、ヤクザ屋さんも似合いそうだけれど、舞台役者の方が似合うような、そんな優しい瞳をした男性だった。

「清春さんの料理美味しいんだよぉ、よかったら食べていきなよ」

「え?いいの?」

「大勢の方が清春さんも腕の振るいがいがあるからね」

「じゃあ、そうさせてもらう」

「よし、決定」

私と彼女は、お互いの顔を見つめ合いながら笑い合った。
その夜、清春さんはご近所から頂いたらしい野菜と新鮮な太刀魚とサザエの御馳走をふるまってくれた。
私にとっても、久しぶりの大人数での食事だった。
作品名:君を待つ町 作家名:奥谷紗耶