あの純白なロサのように
どうやら女は俺に気づいているようだった。しかし、あのひりつくような視線はあれ以降一度もこちらに向けられたことはない。俺に害意がないと判断して、その辺の花や草と同じように、もしくはその髪を揺らす風のように、あってなきが如く扱われた。無視をしているんじゃない。それならまだいい。女が会いたいのはあくまで弟であって、俺にはそもそも全く興味が無いということなのだ。それには馬鹿にされているようで少し腹が立った。
女はいつも笑顔だった。ころころと楽しそうに笑い、くるくるとよく表情を変えた。そんなに笑って疲れないのかと思うほどに。
ある日、女と弟はいつものように楽しそうに喋っていた。弟がなにか言った後、珍しく女の表情が曇った。それは本当に微々たる変化だったので、幼い弟は全くそれに気がつかないようで、女に向かって重ねて何事かを言っていた。
家に戻ってきた弟に、一足先に帰っていた俺はおかえりと声をかけてから、何食わぬ顔で今日も「お姉さん」と会っていたのかと聞いた。弟は待ってましたとばかりに頷く。弟が「お姉さん」と会ってからと言うもの、この家の話題はそれ一色だ。
「今日は何を話したんだ?」
「今日はね、都のパレードの話をしたんだ。この世のものとは思えないぐらいとってもとっても綺麗だって!ねぇ、兄ちゃん、僕、パレード見てみたい!」
「パレード…」
五年に一度、王族が権威を見せつけるためにこれでもかと豪華なパレードをしているのは知っていた。なにせこの国の王自身もパレードの行列に加わるのだからその盛大さは計り知れない。おかげでパレードが近づくと貴賤無く皆浮き足立ち、都はこれ以上無いぐらい活気づく。都と言っても、一応この森も都の一部だ。ただ少しばかり離れている。
俺は考えた。いつかはこの弟に森を出て都を見せるつもりだった。それならこの機会はうってつけかもしれない。幸いにもその稀なるパレードは一月後に行われる予定だった。
「…わかった。良い子にしてたら連れてってやる」
俺は甘ったれの弟が調子づくと困るので、わざと顰めっ面で頷いた。保護者役も楽ではない。しかしそんなことお構いなしの弟は飛び上がって喜んだ。
「本当!?いやったあ!兄ちゃん、後で嘘って言うのはなしだからね!」
「おい。良い子にしてたら、だぞ。わかってるか?」
「わかってるわかってる!やったぁ!お姉さんにはヒミツにしておいて、後で教えてあげよう!森から出てない僕が都のパレード見たって言ったら、ビックリするんだろうな~」
全く聞いて居なさそうな弟にやれやれと肩を竦めて、俺はふと今日の女の表情に陰りがあったことを思い出した。
パレードで何かイヤなことでもあったのだろうか。いつも打てば響くような会話をしている女には珍しく口ごもりつつ答えていたのも印象的だった。
…いや、俺が気にすることじゃないか。
その後も弟と女はロサの泉で会っては楽しく遊んでいた。パレードの日が近づいても、弟は見に行くと言うことをしっかり女に隠しているようだった。
そして、その日は来た。俺は南国風の服に身を包み、瞳以外頭の先までぐるぐると布で覆った。弟はそんな俺を不思議そうに見ていた。
「僕も布巻くの?」
「いや、おまえはいい」
「ふーん?」
目をぱちくりさせていたのは一瞬の間だけで、すぐに弟の興味は他に移った。
何しろ今日は、厳つい老兵でさえ心躍る、夢のパレードの日だ。
「ねぇねぇ、あれは、あの人は何をしてるの!?」
「あれは大道芸人だ。踊ったり手品をしたり火を噴いたりして金を稼いでいるんだ」
「すごいすごい!兄ちゃん!あれは、あれは!?」
「あれは牛だ。森には居ないな」
「えー!じゃあ、あれは!?」
弟の興味は尽きない。俺は然(さ)もありなんと、聞かれたいちいちに答えてやっていた。
すると、そんな喧騒を割るようにラッパが鳴った。その音は高く長く続き、俺たちと同様興味が千々に散っていた人々の動きが一度に止まった。
「なに、なに?」
弟は不思議そうにきょろきょろと辺りを見回す。皆が同じ方向を見ているのも気になっているようだった。
「パレードが始まる合図だ」
「うわぁ!」
そう教えてやると、弟は興奮のあまり走り出した。迷子になるぞと俺の声も聞こえない様子で、人混みをちょこまかと縫って駆けていく。俺の巨体では、見失わないようにするので精一杯だ。
パレードの沿道には息詰まるぐらいの人垣が出来ていた。誰も彼もパレードをより良いところで見たいと押し合いへし合いしている。弟は、そんな人たちの足の間をすり抜けて、なんと一番前まで行ってしまった。
兄ちゃんはやくー、と喧騒に紛れた遠くから弟の声が聞こえるが、何が早くだ。一番前に居る人は何時間も前からそこでパレードのためだけに待っているんだ。そこに割り込むなんて礼儀知らずも良いところ。知らぬ事とは言え、甘やかしすぎたか。早く連れ戻さなければ。
俺は内心頭を抱えながら、「すみません」「すみません」と謝りつつ人並みを掻き分けて弟のもとまで辿り着こうとした。
やっと弟の姿が見えてきた…というところで、人々が一斉に沸き立った。折悪くパレードが到着したらしい。馬や象といった動物ですら、全身重そうな黄金で飾りたてられて、絢爛豪華を体現した目にも鮮やかなパレードが近づいてくる。俺は興奮してどやどやと動く人波で押し流された。弟に手は届かない。人々の頭上に花が舞う。パレードの先頭は王だ。若き王ながら、臣下に良く心を配り善政を敷いていると聞く。みなその王が見たいのだ。
「お姉さん!」
その声は喧騒を押しのけて、とても鮮明に聞こえた。俺の幻聴かと疑うほどに。
悲鳴が上がる。
いきなり何かがパレードの前に飛び出したのだ。嘘だろう!?それは見間違えることない俺の弟だった。そして、まっすぐ王に向かって駆けだしていく。とても嬉しそうに。いや、王に向かってではない。正確には王の後ろ―…頭の先まで白銀の甲冑に身を包んだ、一際小柄な人間が乗る白馬へと。
俺は戦慄した。パレードの妨害は命と引き替えになる重罪だ!
俺は周りの人間を突き飛ばしてがむしゃらに走った。弟に向かう衛兵よりもはやく!間に合えー…わかってる、間に合う距離じゃない、でも間に合ってくれ、お願いだ!
王は弟を見てはっ、としたように綱を引いた。いきなり歩みを止められた王の馬が苦しそうに前足を高く上げて踏鞴(たたら)を踏む。
その王の横を素早く白馬が躍り出た。躊躇無く磨き上げられた腰の剣を抜きながら。
「氷の魔女!」
誰かが叫んだ。
必死で伸ばした五本の指の向こうで、高く掲げられた白刃が眩しく陽の光を反射した。
それは一瞬だった。
弟は何が起こったのか理解していないと言った風で、その場に似つかわしくないほどきょとんとした顔をしていた。
時が止まったかのようだった。
群衆は呼吸さえ飲み込み微動だにしない。
弟はゆっくりと自分の胸から生えた剣を見、その刃を辿って柄を握る手を目で追い、腕を登り白銀に輝く兜の向こうにその視線は辿り着いた。固く覆われた甲冑の下にあるものを、その時確かに弟は見ていた。
作品名:あの純白なロサのように 作家名:50まい