『人間風景』
「あんたを止めることは出来ないってね。あんなに楽しそうに仕事に出かけるあんたの背中を見てたら、そう思ったんだ。だってさ、考えてもみなよ。自分の幸せだけ考えてあんたを会社から連れ帰っても、あんたはむすっとするだろう? 仕事したいのにって。あんたは不幸になっちまうだろう? だからさ、あたしはあんたの熱意を消してしまうことはできないと思ったんだ」
「お前、そんなこと考えてたのか……でも、それじゃあお前は幸せじゃなかったんじゃないのか?」
「あたしはね、新たな楽しみを見つけたんだ。疲れたあんたを毎日遅くまで起きて待って、朝早くに起きてあんたを送り出して。積もりに積もった恨み辛みを老後にぜーんぶ返してもらおうってさ! あんたの退職を心待ちにしてたんだよ」
そう言って、妻はまるで子供のように意地悪な笑顔を浮かべた。
しかし、
「まあ、でも。それも無理そうだけどね」
と、寂しそうな表情に変わった。ふっと妻の瞼が閉じる気配を感じて老人は焦った。また意識が消えてしまうのではないか。老人は妻に詰め寄った。
「ばあさん、寝るんじゃない! 寝るんじゃないぞ!」
老人は呼びかける。呼びかけるのだが、どこかぼうっとした様子で妻は言った。
「心残りがあるとすれば、これだね」
そう言って妻が布団から取り出したのは、一本の杖だった。壁に立てかけてあったはずの片割れだ。
「せっかく買って貰ったのに、使えそうにないわ」
「な、なに言ってんだ! 元気になったら散歩に出かければいい! な? そうしよう! ほら、今までの恨み辛みを返すんじゃなかったのか? 散歩に出かけたついでに喫茶店に寄ろう。お前が好きなモンブランをたらふく食わせてやる。だから」
そんなこと言うなよ。そう言った老人に、「そんなにいっぺんに喋んないでよ」と妻は苦笑した。
「そうさね、恨み辛みの清算をしてもらわにゃあね。生きなきゃ損だね」
「そうだぞ。モンブラン食いたいだろ?」
「ああ、食いたいねぇ」
妻の目がとろんと溶けるような錯覚を起こした。老人はぎゅっと拳を握り締めた。
「でもまずは体を良くしないとね」
そう言って妻は欠伸を一つした。
「ちょっと昼寝するわ。起きてから夕食作るけど、いい?」
「……ああ、いいよ。お前の手料理を食うのはいつぶりだろうか」
「もう覚えてないよ。それで、何が食べたい?」
「えっ、ああ、そうだな……ハンバーグなんてどうだろう」
「まるで、子供みたいだね。でもいいよ、作っちゃる。何せ初めてのリクエストだからね」
「……そうだね」
「ああ、眠い……でも、そうだ。材料がない。買いに行かないと」
そう言って妻は、体をもぞりと動かした。老人は慌てて妻に手を伸ばした。安静にしていなければいけない。そう思って、起こした体を寝かしつけようと思ったのが、もぞりもぞりと動くだけで起き上がってくる様子はなかった。
「今日はいい天気だね。あんた」
妻が体を動かしながら言った。
まるで歩いているようだ、と考えたところで気づいた。布団を捲ってみると、まるで杖を突いて歩いているような仕草をしていた。
「あれ、見てごらん。花が咲いているよ。綺麗だね」
言葉を失った老人はただただ震えていた。一瞬にして溢れかえった涙は、乾いた喉を潤すほどだった。
老人は、涙をぐっと堪え、そっと妻の手を握った。
「ああ……ああ、綺麗だね。何の花かな?」
「さあね。知らんよ。でも、綺麗だね」
「そうだね」
妻はふっと笑った。
「楽しいねぇ」
「…………」
老人は何も答えられなかった。
次第に妻の動きは鈍くなっていった。動きは緩慢となり、小さくなっていった。
ああ、もう少しで終わってしまうんだな。それが、老人にはわかってしまった。それでも老人は妻の手から自分の手を放さなかった。ずっとずっと握っていた。その時が来るまでずっと握っていようと思った。妻の手は皺々で、長年の家事の苦労を物語っていた。微かな、灯火のような温かさがあったが、それは体温とよべるほどに暖かくはなかった。老人は、その灯火が消えてしまわないようにとその手を強く握った。
「ちょっとここいらで休憩しようか。この草原は心地いいねぇ」
そう言ったときには、妻は完全に動きを止めていた。
その時が来たのだ。老人は悟った。
「いい杖だね」
体が震えた。目はとても熱かった。それでも老人は、まるで妻とデートでもしているかのように明るい声で、言った
「オーダーメイドだからな」
それを聞いたのか、聞いていなかったのか。妻はそれきり何も言わず、動かなくなった。そっと頬に触れると、冷たかった。
妻は静かに息を引き取っていた。
老人は、乾いた妻の肌を潤すかのように涙を流し続けた。
それはさながら、砂漠に降る雨のようだった。
◇
「それから老人は、杖を肌身離さず持っているとさ。めでたしめでたし……って」んなわけねぇよなぁ。
目の前の老人を見ても、憂いの一欠けらもない、実に清々しく、それでいてまだまだ現役のような鋭い気迫のようなものが窺える。妄想の走りすぎだ。
しかし、それにしても、
コツコツココツコツ。カチカチカチカカチカチ。
一定のテンポで、リズムを刻み始めているような気がするのは俺だけだろうか。いや、俺だけだ。なぜなら、一人の老人をじっくりと観察しているのは俺だけだからだ。
「フンフンフフーン、フン」
鼻歌を歌ってみる。するといい感じに杖のリズムと噛みあった。
――もしかしたら、彼はドラマーだったのじゃないだろうか。
老人が刻み始めたエイトビートに頭が刺激されて、再び俺の妄想が迸る。
◇
おーい、と自分を呼ぶ声が聞こえて。タカシは後ろへ振り返った。
「おーい、タカシー!! 頑張れよー!!」
そこは駅のホームだった。タカシは改札を抜け、今まさに電車に乗り込むとところだった。ステップに足を乗せたところで、改札の向こうから友人が手を振って大声を上げていた。
「ああ、ありがとう! 俺はビッグになって帰ってくるぜー!!」
昨日、学校の友人達がお別れ会を開いてくれて、タカシはその時しっかりと別れの挨拶を済ませていた。だというのに、改札の向こうにいる友人は、わざわざ朝早くに出向いてきていた。
電子アナウンスが出発を告げる。タカシは急いで電車に乗り込むと、閉まる扉越しに友人に目をやった。
電車が進むのに合わせて追ってくるということはしなかったが、いつまでも改札の向こうで手を振っていた。目や鼻が赤かったのは、冬という季節の寒さのせいだけではないのかもしれない。本人は気づいていなかったが、タカシの目元も赤かった。
タカシは席に座ると、外を眺めた。田舎風景が、まるでビデオの再生ボタンを押されたかのように物凄い勢いで後ろへ流れていく。その光景を、記憶に刻むように見た。
タカシはこれから上京するのだ。進学のためではない。就職のためでもない。ただ、自分の実力を知るために、上京するのだ。
タカシは、ドラマーだった。スティックで円形の筒を叩き、自由自在にリズムを刻む、ドラマーだった。