『人間風景』
老人は、妻が風邪で辛そうにしていたときに、自分は何をしてやっただろうか、と記憶を辿ってみた。結果は、白紙だった。妻には何もしてやらなかった。じゃあ自分は妻に何をしてやったのだろうかと、抽象的ではあるが思い出というものを記憶の中に探ってみると、破損したデータを読み込ませて印刷させたような黒い横線の入った紙が次々にカタカタと音を鳴らして出てきた、そんな気分になった。
その時、ふと老人は思った。地位や名声にどんな意味が、どんな価値があるのだろう、と。
会社にいるかぎりはそれらは誇るものであり、自尊心を満足させてくれるものだった。時には、自分の地位を狙う同僚たちから自分を守る盾となり、武器でもあった。それらは、永遠だと思っていた。理由はないが漠然とその栄光は永遠に失われないものだと思っていた。
しかしどうだろう。定年退職を迎えた後、そんなものにどんな価値が残るのだろうか。もちろん、それらは死ぬ時になって自分の人生を証明する華として飾ることもできるかもしれない。では、退職した後の生活。妻との二人きりの生活に、それらはどんな意味を持つのだろうか。会社という外の世界で手に入れた地位や名誉を誇ることは、妻との生活に何をもたらすというのだろうか。その生活に自尊心というものが必要なのだろうか。敵のいない生活の中で剣と盾を持つことにどんな意味があるというのか。老人は考える。
と、
「あんた! 何をしているの! 部屋で大人しくしていなさい!」
階段を降りきったところで、妻が帰ってきた。妻は、会社ではあらゆる人から頭を下げられている老人に遠慮なく叱り付けた。本気で心配している顔だった。外は土砂降りで、妻の片手には傘が握られていたが、折れて使い物にならなくなっていた。妻はびしょ濡れだった。
「おかえり……なさい」
妻の姿を見た時、老人の中で何かが弾けた。
考えていたことの答えが出たような気がした。
「あらあんた、泣いているの?」
気がつくと頬を伝って、熱い涙が洪水のように流れていた。涙が口に入った頃、老人は「ごめん、ごめんよ」と口にしていた。その次に出てきた言葉は、「今までありがとう」だった。
そして、その次に出てきた言葉は、「今日からずっと一緒だ。死ぬまで一緒だ」だった。
妻はポカンとしていたが、しばらくして、笑って言った。
「何を気色悪いこといってるんだい。そんな恥ずかしいこと言っちゃって……でも、まあ……うれしいよ」
知らぬ間に、妻は腰を悪くしていた。傘を置いた妻は、とんとんと腰を叩いていた。
それならば、と老人は思った。それならば、杖を買ってこよう。自分も腰を痛めている。お揃いにしよう。お揃いの杖を突いて、一緒に散歩に出かけよう。今まで寂しい思いをさせた分を取り戻そう。
妻が作ってくれた料理のおかげか、それからすぐに老人は元気になった。そしてすぐに老人は会社に退職願いを出しに行った。何度も何度も考え直すように言われるかと想像していたが、そんなことはなかった。年老いた役立たずをやっと追い出せる。そんな雰囲気が会社内を流れていた。それなりに高い地位にいて、沢山の仕事に着いていたが、自分がいなくとも問題なく歯車は回っていた。今思い出せば、自分はでしゃばっていただけだったのかもしれない、と老人は回顧する。たくさんの仕事に着いていたのは、自分から手を伸ばしたからだ。やりたい仕事に次々に手を出した。自分が参加表明すると、誰も拒否しなかったが、それはもしかしたら、位が高いだけに周囲の人は断れなかっただけじゃないか、と老人は思った。最近の技術の進歩に追いつけていないと、老人は感じていた。
老人はその日、杖を買いに街に出た。事前に調べておいた良質と噂される店で、オーダーメイドの杖を注文してから家路についた。晴れ晴れとした気持ちだった。会社で自分の存在感の希薄さと価値の低さを確認し、どれだけ自分が愚かだったかを思いしらされたが、老人は満足していた。
これからは妻と一緒だ。馬鹿な自分をいつでも出迎えてくれたあいつと、これからはずっと一緒だ。これから死ぬまで、妻に償いをするのだ。その思いが、老人の心の杖となっていた。
帰宅すると、老人は居間で倒れている妻を見つけた。
倒れていた妻は、ぴくりとも動かなかった。
頭から血を流し、目を瞑っていた。
そっと撫でた額は、絹のように滑らかだった。しかし、一つの大きなシミのような跡に目が行ってしまう。あの日、老人が退職願いを出し、杖を買いに行った日。老人の妻は足を滑らせて額を強く打っていた。それは大きな跡となり、まるでその跡を介して魂でも抜け出てしまったかのようで、それ以来妻は意識は戻さなかった。
後悔が津波のように老人を襲い、涙が出そうになったとき、その涙ごと波は引いていった。涙は枯れてしまった。
「もっと早く気づいていれば……」
もっと早く妻の寂しさに気づいていれば。こうなることが運命だったならば、もっと一緒にいてやればよかった。そうしたら、たくさんの思い出が作れただろうに。何度も何度もそう考えた。涙は尽きても、後悔の底は見えない。
ふと思い出して、老人は顔を上げた。思い出して、というよりも無念が老人にそうさせたのかもしれない。壁に立てかけている杖に目を送った。
しかし、そこにあるはずの杖がなかった。老人の分も含めて二本の杖が立てかけられている筈なのに、そこには一本の杖しかなかった。
おかしいな。そう首を傾げ、どこへやったのだろうと探そうと立ち上がりかけた時だった。
老人の妻が目を開けた。すっと音も気配もなく、瞼を開いた。
「ば、ばあさんっ!」
老人が驚いて声を上げると、
「なんだい、うるさいねぇ」
幾日も意識がなかった人間とは思えないほどにはつらつとした声で妻は言った。
「ばあさん、体は、体は大丈夫なのかい?」
老人が尋ねると、妻は口を動かして全く見当違いなことを言い始めた。
「あたしはさ、不幸じゃなかったさね」
「は、はあ? お前、大丈夫なのか?」
頭を強く打ちすぎたのか、と心配する老人に妻はけたけたと笑い返した。
「あんたさ、さっきあたしのこと寂しいやつだと思っただろ」
「え?」
「もっと早く気づいていれば、の続きだよ」
「お前、聞いてたのか?」
「ずっと聞いてたよ。ずっとずっと、全部全部聞いてたよ。あんたが話しかけてくれたこと、全部聞いてたよ」
体が動かなかったんだよ。声を返してやれなくて済まなかったね、と妻は謝った。
「全く失礼な人だね。あたしが寂しいって? 馬鹿馬鹿しい、勝手に決め付けないでくれよ。あたしはあたしなりに一日一日を謳歌してたんだよ。友達とショッピングしたり、料理教室に通ったりね」
あんたは知らないだろうけど、という妻の言葉にたじろぐ老人。「す、すまない」と謝る老人に対し、妻は謝ることなんてないよと笑った。
「まあでも、あんたが仕事に熱を入れ込むようになって、最初は寂しかったんだ。覚えているかい? あたしら、喧嘩したじゃないか。なんでもっと早く帰ってこないのかって。最初で最後の喧嘩だったね。でもさ、しばらく経ってから思ったんだ」
「なにを?」