『人間風景』
二杖流じいさん
ある日のこと。
その日、サラリーマンである俺は営業回りのため外を歩き回っていた。
電車を降りて、駅内から外に出た時だった。コツコツ、という鈍い音と、カチカチ、という堅い音が前方から不規則に聞こえてきた。正確に表現すると、ココツコツコツココツ、カチカチッカチッカチ、というような間抜けなリズムだ。
俺の前方を一人の老人が歩いていた。老人はまるで、会社を定年退職したのだけれど、スーツを着ていないと落ち着かず、リストラされて未練たらたらな人間と勘違いされるのも嫌なので、スーツの上着を脱いでセーターを着ることで現役を引退した貫禄を出そうとしている、そんなような格好だった。もちろん俺の妄想だけど。
しばらく、俺は老人の後ろについて歩いた。間抜けなリズムは止まない。
ある意味で初々しい(第二の人生を歩き始めたという意味で)その老人の後ろを歩いているのは、別にストーキングしているというわけではなく、俺が歩み進む先をまるで知っているかのように、老人が先行して歩いているからだ。しかもなかなか早く歩く。
この『コツコツ』という鈍い音は、靴音ではないだろうかと考える人が大多数だろうが、実はステッキを地面に突いた時の音だ。本当に杖が必要なのかと疑問に思えるほど、老人の一歩は大きいが、未だに職業病を引きずっているのかもしれない。
それでは『カチカチ』、という音はどうだろうか。文に起こして、『カチカチ』などと見れば、ライターを開閉している情景でも思い浮かべる人がいるのではないだろうか。少なくとも俺はそうだ。俺はタバコを吸わないからよくわらないのだが、自宅があるハイツのスモーカー達は世知辛い世の中だと言っていたっけ。
……ああ、いかんいかん。話が脱線するのはどうも俺の悪い癖だ。いや、歳のせいだ。俺のせいではないっ!
それで、俺はどうにも老人の手元が気になって仕方がない。性格には、手元よりちょっと下。というのも、先ほどから聞こえてくる音は、老人の手元下から鳴っているのだ。『コツコツ』もそうだが、『カチカチ』も老人の手元下あたりから聞こえてくる。この条件が追加されると、途端、何の音か想像がつかなくなるだろう。
じゃあ、何の音なのかと言えば――それはやはりステッキの音なのだ。
この老人、どういうわけか二本のステッキを握っている。片手に、だ。片手に二本も握っているから、ぶつかり合って『カチカチ』鳴っている。
そう、言わばニ杖流(にじょうりゅう)だ。ニ杖流じいさんだ。
……あんまりかっこよくないな。
まぁそれでだ。俺が何処へ向かっているのか分かっているとでもいうのか、常に俺の先を歩いているそんな奇妙な老人に目が行かないはずもなく。
俺は調子ハズレなリズムを刻む二本のステッキの音を聞き、そのリズムに合わせて鼻歌でも歌ってみようとして、ズッコケながら歩いていた。
それにしても、と俺は考える。それにしても、どうして彼は二本も杖を持っているのだろうか。
片手用の腰ぐらいの高さまでしかない杖を、二本も使用する必要性がどこにあるのだろうか。松葉杖だと二本一組で使用する場合もあるが、あの杖は明らかに一本で十分だろう。それに松葉杖だって片方の腕で二本も使用したりしない。
コツココツコツ。カチカチカカチカチ。聞いていると、段々とリズムが整ってきているように思えた。
「ふーむ」
俺は想像してみる。じいさんが二本の杖を必要とする理由を。
――例えばこんなのはどうだろうか。
あの杖はばあさんの形見で、常に肌身離さず持っていたいという思いがあるのかもしれない。
◇
「――なつかしいなぁ、ばあさんや」
「………………」
青空に程よい程度に雲がかかり、陽射しを和らげている小春日和のある日。外の心地よさとは無縁の薄暗い家屋の中で、その老人は寝たきりの妻の下に座り込んでいた。
老人は六十年もの間、自分に寄り添い生きてくれた片割れに言葉を投げかけていた。
「今日はわしらの結婚記念日じゃったの。この日を祝わなくなって幾歳月が経ったことか」
「………………」
しかし、老人の妻の口から言葉が発せられることはなかった。妻の意識はなかった。
それでも、老人は構わなかった。自分には何もしてやれない。自分には、話しかけることしかできない。それを老人は理解していた。
「ばあさん……」
「………………」
「お前さんは、」
幸せだったか? そう言葉にしようとして、止めた。
口にしようとした瞬間、不安になったのだ。
老人は、仕事熱心な人間だった。熱心だったが故に、家庭をおろそかにしてしまった。仕事の帰りはいつも遅く、翌日になってから玄関をくぐることも多かった。その度に、妻は寂しそうに「おかえり」と出迎えてくれた。文句の一つも言わず、遅くまで起きて老人の帰りを待った。
それでも、我慢をしていたのだろう。ある日、妻はもう少し早く帰ってこれないのかと老人に詰め寄った。何を言っているのだ、仕事だからしょうがないだろう。老人とその妻は結婚してから初めての喧嘩をした。妻が何か言うたびに、老人は仕事だからと返した。しかし実際のところ、老人は自分から進んで仕事を増やしていたのだった。やりがいがあった。やればやるほど地位が上がり、名声を手に入れた。心地よかったのだ。結局、老人は翌日、いつも通り出勤し、謝るどころか喧嘩について一切触れずに出かけていった。仕事だから。老人は心の中でそう呟いていた。そして仲直りは未だに済んでいない。
だがある日。定年が間近に迫る歳になって風邪をこじらせて寝込んでしまった日のことだ。
老人のためを思って妻は、滋養に富んだ物を食べさせようと思い、老人が眠っているのを見計らって外へと出かけた。そうとは知らず、老人は目が覚めると妻に呼びかけた。ばあさんや、ばあさんや。掠れた声で何度も呼ぶが、誰も答えない。老人とその妻の間には子供もいなかったので、妻以外に返事を返してくれる人はいなかった。しかし、肝心の妻の返事はなかった。
老人は急に心細くなった。誰も家にいない。いるのは自分のたった一人だけ。家の中は異様に静かで、ほとんどの時間を会社で過ごしてきた人間にとっては、自宅は慣れない環境ですらあった。土砂降りの雨が窓を打ち、人の気配を全て洗い流していた。だというのに、室内の静けさは耳鳴りを起こすほど。
この世界には誰もいなくなってしまったのではないだろうか。ふと、そんな子供じみた不安に駆られた。それは、幼少期に誰しも一度は味わう不安なのかもしれない。しかし、大人になってからは一度もそんな妄想を抱いたことはなく、そもそも体を壊して寝込むということも、覚えている限りでは四十年も前の話だった。
老人は、寂しいと思った。体の節々が痛んで動けない体をなんとか動かそうとするが、どうにも上手くいかない。それでも、寂しいという気持ちから、老人は無理をして自宅の二階から一階へ降りて行った。階段を降りながら、老人は思った。
妻はいつもこんな寂しい思いをしていたのだろうか。