プラタナス並木の道から
気がつくと、プラタナス並木が視界に広がっていた。まつりの足は無意識にこの道へと向かっていたのだ。雪が積もった歩道は道幅が狭く、どこまでも白く続いていた。
「矢萩になかなか言い出せなくて。昨日はあんな時にごめん」
萩原紀はいつの間にかまつりの横に並んで歩き、ちらりとこちらを向いて言った。まつりはただ、こくりと頷いた。
「怒っているのか?」
まつりは頭を大きく横に振った。
――そんなことないけれど、萩原君の気持ちは嬉しいけれど、でも……。
「あいつのこと、まだ好きなのか」
「……うん」
まつりはようやくそう答えた。
「でも、あいつにはもう彼女がいるんだろう?」
「……振られたって」
「きいたのか?」
「昨日……瀬川のおばあちゃんと留守番していた時に、要ちゃんが帰ってきて――」
まつりはぽつりぽつりと話した。
「……俺のこと好きなんだろう。イブは一緒に過ごそうって……でも酔っていたし、からかわれたんだと思う」
「あいつにちゃんと訊いたのかよ!」
萩原紀が足を止めて大声を出したので、まつりは眼を見開いた。
「どうして萩原君が怒るの?」
「……おまえの、矢萩のことだから」
足元を見て萩原紀は呟いた。
可愛いと思った。視線をそらし、苛々した口ぶりで、自分のことを心配してくれている萩原紀のことが可愛い。
まつりはつい、ふふっと笑ってしまった。
「なんだよ! 人が心配してやっているのに!」
「ごめん。萩原君、ありがとう」
まつりは素直に謝り、笑顔を返した。
「きっと覚えていないと思うけれど」
萩原紀はそう前置きして話し始めた。
「俺、矢萩に小学生の頃、会っているんだ」
「え?」
「おまえ、転んで足に怪我をしたことがあるだろう? あの時、俺もその病院にいたんだ」
萩原紀は照れくさそうに鼻の頭を手でこすった。
「あの病院、俺んちなんだ」
まつりは記憶を思い起こした。
そういえば、確か萩原整形・外科医院という名前だった。
「土曜日の時間外に来ただろう? あの時、俺は丁度、親父と出掛ける所だった。それなのに急患が来たからふてくされていたんだ。それで、どんな奴が折角の土曜日を台無しにしたのかと診療を覗いた。そうしたら矢萩がいて。おまえさ、大泣きしていたのに傷を縫合する時はまったく泣かなかった。親父が縫合しやすいように動かないでじっとしていただろう? 凄い奴だなって」
うろ覚えだった。だが、そう言われてみれば同い年くらいの男の子が、診察室を恨めしそうに覗いていたような気がする。
「うまく言えないけれど、お前って根性あるんだからさ、強気でいけよな」
一生懸命、励ましてくれる萩原紀。
――そんなことを覚えていてくれたなんて。ずっとわたしのことを見ていてくれたのだろうか。
まつりは気恥ずかしくなった。
「きちんと告白してさっさと振られて来い。そのあとは……俺が矢萩を貰う」
まつりの瞳を見つめてそう宣言した萩原紀はとても凛々しかった。
眩しい陽の光の下、一点の曇りもない萩原紀の真っ直ぐな瞳は、まつりには眩し過ぎて思わず目を伏せた。
「うじうじしているのはお前らしくないぞ」
「うん……」
まつりは臆病になっていた。瀬川要に告白した後に傷ついた自分を想像すると、怖気づいてしまうのだ。萩原紀に背中を押され、まつりは少し勇気を取り戻した。
そこからは冗談を言い合い、憎まれ口を叩くいつもの二人に戻れた。道沿いにある教会を過ぎ、石倉造りの洋菓子屋さんで珈琲を飲み、二人はたわいのない会話を交わし、そしてさよならをした。
「俺、矢萩からの電話を待っているから。どっちにしても絶対電話しろよ!」
帰り際、萩原紀は念を押すように言った。
笑顔で手を振って別れたのだが、まつりはもう心に決めていた。
瀬川要に振られても萩原紀とは付き合えない。やっぱり、そんな身勝手なことはできない。そう思ったのだ。
母の嘘
まつりはその足で瀬川要を尋ねた。弱気にならないうちに会おう。そう思ったのだ。三つ編みのヘアスタイルが幼く見えて気に食わなかったが、そんなことは言っていられない。今を逃したら、また怖気づいてしまいそうだった。
まつりは勢い込んで瀬川家を訪ねたのだが、呼び鈴を押しても応答がなく、肝心の瀬川要は不在だった。瀬川家には誰もいなかったのだ。
仕方なく、まつりはいったん家へ帰った。
「どうだった?」
好奇心で目を輝かせた母がまつりを待ち構えていた。この人は本当にこの手の話が好きなのだろう。娘の恋愛に口をはさむ母に、苛立ちというよりは呆れ果ててため息が出た。
「ふう」
「まつり……」
「お母さんには関係ないでしょ」
「冷たいのね」
「お母さんの噂話の種にされたくないもの」
「そんなことしないわよ。あなたのことが心配だから」
「大丈夫、いいの。放っておいて」
素っ気ない返事に、母は不満そうに腕を組んでまつりを見た。
「少しは娘のことを信用して自由にさせてよね」
まつりは母に向かって嫌味っぽくにっこり笑いながら階段を上がった。
「心配しているのにそんな言い方しなくてもいいじゃない」
母の大きな声の独り言が、階段を上がる途中で聞こえてきた。
「あ、まつりに言い忘れる所だった」
「何よ」
「瀬川さんのご家族、皆で病院へ行ったみたいよ。瀬川のおばあちゃんの容態が急に悪化したのかも」
「えっ! 何で早く言ってくれないのよ! いっつも肝心なことを後で言うんだから! それ、何時頃の話?」
暢気な母の話し方が焦りを助長させ、まつりはきつい口調になった。
「そうねえ、まつりが出掛けた直ぐくらいかしら?」
その返事を聞き終わらないうちに、まつりは階段を駆け下りてコートに袖を通すなり、行ってきますと言いながら玄関へ走った。
「どこへ行くの?」
どこへ行くのかわかりきっているのに、わざとらしく訊いてきた母に、まつりは「病院!」と答えて玄関を飛び出した。
自分が行ったからといってどうにもならないことは、まつり自身よく分かっていた。でも、行かずにはいられなかったのだ。瀬川のおばあちゃんは自分の不注意で体を悪くしたのだから。そんな罪悪感がまつりにあった。
バスに揺られながら、まつりは最悪の事態を想像してしまっていた。いくら良い方に考えようとしてもどうしてもその考えが頭から離れないのだ。
――もし、おばあちゃんが死んでしまったら……。
雪でがたがたの道を、路線バスはのんびりと進んでいる。病院まではバスの乗り継ぎになる。着くまでに一時間はかかってしまうだろう。
――ああ、神様!
まつりは俯き、両手を重ねてきつく握り締めた。普段は神頼みなどしたことのないまつりだったが、すがれるものには何にでもすがりたい気分だった。
あれこれと考えすぎて疲れきった頃、まつりは病院にたどり着いた。冬の日暮れは早い。辺りはすっかり夕闇に包まれていた。
おばあちゃんは個室に移されていた。
ここまで来たものの、扉の閉まった病室の前でまつりは躊躇した。
ただのご近所という立場のまつりが、容態が悪化して立て込んでいる所へ顔を出しても、邪魔になるだけではないか。やっぱり会わないで帰るべきだろうか。
作品名:プラタナス並木の道から 作家名:asami