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プラタナス並木の道から

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 呼び捨ての名前に、違和感を覚えた。まつりは後ずさった。
「ごめんなさい!」
 まつりは部屋から、瀬川要から逃げ出した。
 階段を駆け下りた所で、足の力が抜け、階段下にへなへなと座り込んでしまった。
心臓が飛び出しそうだった。瀬川要はまつりが望んでいた通り、クリスマスを過ごそうと誘ってくれた。なのに、逃げ出してしまうなんて。まつりは自分が分からなくなった。
「俺の早合点だったかな。ごめんな。脅かして。じゃ、俺、出掛けるから」
 要はまつりの頭を軽くぽんぽんと撫ぜて、玄関を出て行った。
 ――違う、違うの。要ちゃんが好き。要ちゃんから誘われるなんて思っていなかったから、驚いちゃったの。
 まつりはそう言いたかったが、声にならなかった。床に座り込んだまま、ただ呆然と、要が玄関から出て行く背中を見送ったのだった。
「私、何をやっているんだろう。折角のチャンスだったのに」
 まつりは予想外の出来事に放心状態になり、床に座り込んでなかなか立ち上がれなかった。
部屋は嫌にしんと静まりかえっていた。
 ――ああ、外は雪なんだ。
まだカーテンをしていなかったベランダの窓。暗闇の中、白く冷たい生き物が風に舞い、次々に地上へと落ちてくる。雪は音を吸い込み、静寂が支配する。
――でも、静か過ぎる。
「そういえば、おばあちゃんは?」
 まつりは立ち上がった。不安がよぎり、ソファに駆け寄った。おばあちゃんはいない。トイレも覗いた。いない。和室にも、キッチンにも。
「おばあちゃん!」
 まつりは叫びながら家中探し回った。不安が増していく。考えたくなかったが、最後に玄関の靴を確認した。
おばあちゃんの靴はなかった。
「おばあちゃん!」
 まつりは玄関を飛び出した。
外は雪が強く降り、視界が悪く、住宅街におばあちゃんの姿どころか人影はまったくなかった。
「おばあちゃん!」
 雪が渦巻く中、まつりの声が空しく響いた。
 ――どうしよう。どうしたらいいの。
 頭の中が真っ白になった。こうしている間にも、おばあちゃんは雪が降りしきる中を彷徨っているのだ。
 ――要ちゃんのことに気を取られて、おばあちゃんを一人にした私のせいだ。おばあちゃんから目を離さなければこんなことにはならなかった。おばあちゃんに何かあったら……どうしよう!
夜七時。瀬川のおばさんが出かけてから二時間は経っていた。
 ――誰か、助けて!
 冷たくなった涙が頬を伝った。まつりは町内を闇雲に探し回った。だが、おばあちゃんの姿はどこにも見つからない。息が切れて、とぼとぼと歩いた。
だめだ。一人では無理だ。落ち着け。まつりは自分に言い聞かせた。早く、早く見つけなければ。もしかしたら、おばあちゃんは家に戻っているかもしれない。
僅かな望みに、まつりは瀬川家まで走った。
 いない。
靴はなかった。瀬川家の玄関前に戻ったまつりは、失望し、再び涙が滲んだ。
「おばあちゃん……」
 泣いていても、おばあちゃんは見つからない。まつりは俯いて涙を堪えた。
「まつりちゃん? 何かあったの?」
 顔を上げたまつりの前に、通夜から帰ってきた瀬川のおばさんが驚いた表情で駆け寄った。
「おばさん、ごめんなさい! おばあちゃん、いなくなっちゃったの。ちょっと目を離した隙に。私が、私が目を離さなければ……私のせいで。ごめんなさい!」
 おばさんの顔を見た途端、まつりは後悔と罪悪感で胸が押しつぶされそうになり、涙が溢れ、膝をがくがくと震わせて、顔色をなくした。
「まつりちゃんのせいじゃないわ。コートも着ないで。寒かったでしょう」
 夕闇に、雪が降り続いていた。いつの間にかまつりの頭や肩に雪が降り積もっていて、瀬川のおばさんは、その雪を優しくはらってくれた。
「帰りが遅くなったおばさんが悪いの。おばあちゃんはきっと大丈夫よ。さあ、おばあちゃんを探さないとね」
 瀬川のおばさんの言葉でまつりはようやく少しだけ落ち着きを取り戻し、涙を手で拭った。
「私、おばあちゃんが見つかるまで捜します!」
「ありがとう。でも、お母さんが心配しているでしょう? 一旦、家に帰ったほうがいいわ。それに、コートを着ましょうね。まつりちゃんが倒れたら大変」
 まつりは頷いた。
 瀬川のおばさんは警察に連絡して捜索を依頼した。まつりは急いで家に帰り、母に事情を話した。
「そういうわけだから、行ってくる」
「後は警察に任せたほうがいいんじゃないの? こんなに冷え切って。あなたは家にいなさい。お母さんが行くから」
「私が行く! じっとしていられないの!」
 まつりは母の暖かい手を振りはらった。
「そう……気をつけてね」
 心配そうにまつりの母は一言そう言った。
「まつり、待って! クラスメイトの萩原君から電話よ」
 まつりが玄関を出ようとした所へ、母が呼び止めた。
「萩原君? 後で掛けるからって言っておいて!」
 まつりはそのまま出て行った。
 もし、おばあちゃんが見つからなかったら……。
まつりはおばあちゃんのことで頭が一杯だった。
 ――おばあちゃん、一体どこへ行ってしまったの?
 まつりはさっき見て回った道をもう一度歩き始めた。

  命
「矢萩!」
 振り返ると、萩原紀が息を切らせて走ってきた。
「萩原君?」
「間に合ってよかった。俺んち、ここから近いんだ。おまえ、知らなかっただろう? カイロ、ポケットに入れておけ」
「有難う……」
 まつりは事情が飲み込めないまま、萩原紀から使い捨てカイロを受け取った。
「さっき、電話でおばさんから聞いた。俺も探すのを手伝う」
「どうして、萩原君が?」
 戸惑うまつりをよそに、萩原紀は持って来た懐中電灯を照らしながら一緒に歩き始めた。
「そのばあちゃん、よくうろうろ出て行くのか?」
「自分の家に居るのに家に帰らなきゃって、窓の外を見ていたの」
「まだ出て行ってからそんなに時間は経っていないんだろう? この近くにいるはずだ。どこかに行きたいとか、何か言っていなかったか?」
「……そういえば、おばあちゃんは川の側の家って言っていた」
「じゃあ、川沿いを探そう」
 この近くには忠別川が流れている。冬の堤防は除雪もされず、雪に覆われていた。
吹き付ける雪。人を近寄らせない冷たい風景。二人は土手から住宅街を見下ろしながら歩いた。だが、それらしき人影はない。
 まつりは急に不安になった。
「おばあちゃん、もし死んじゃったら……」
「馬鹿なことを考えるな! きっと大丈夫だ。行くぞ」
 萩原紀の怒鳴り声で、動転していたまつりは少し落ち着きを取り戻した。
 ――そうだ、今はおばあちゃんを見つけることだけを考えよう。
 堤防沿いを、まつりの先に立って萩原紀がどんどん歩いていく。まつりが歩きやすいように足で雪をかき分けながら歩いてくれていた。
 益々降り積もる雪。足跡さえかき消してしまう勢いだった。人を飲み込んでしまうように不気味に青白く染まる雪の中、萩原紀の背中を追いながら、まつりは黙々と歩いた。
「大丈夫か?」
「うん……」
 萩原紀のぶっきらぼうな声掛けが優しく感じる。
萩原君は何故こんなことに付き合ってくれるのか。まつりには分からなかった。ただ、彼の背中がとても頼りがいのあるものに見えた。
作品名:プラタナス並木の道から 作家名:asami