プラタナス並木の道から
まつりは気のない返事をした。
――どうせ、私が心配してもどうすることもできないもの。
まつりは苛々していた。クリスマスは刻々と迫っているのに、瀬川要とはあれ以来会っていない。まだ会う勇気がなかった。
――あと、三日しかない。もう無理かも。
小遣いを溜めて買った黒い皮手袋は、部屋に大事に置いてある。まつりは諦めかけていた。
「ごめんね、彼氏と約束しちゃって。まつりはクリスマスどうするの?」
放課後の教室で、友達は嬉しそうに、でもすまなさそうに肩をすくめた。
「家でケーキでも食べようっかな?」
まつりはおどけて見せた。友達は彼氏と過ごすのだ。それで焦っているというわけではないが、瀬川要のことをすっきりしないままにしておきたくない。
振られたとしても後悔しないように告白しよう。ようやく気持がそこまでたどり着いた所だった。
「矢萩、クリスマスは一人だって?」
放課後、萩原紀がにやにやしながら廊下で声をかけてきた。
「大きなお世話! 萩原君には関係ないでしょ!」
「俺、付き合ってやってもいいよ」
「えっ?」
「まだ、この前の奴のこと好きなのか」
「萩原君には関係ない――」
まつりはそう言いかけたが、萩原紀の真面目な顔に言葉を詰まらせた。
「あのさ、本当に……俺、あいているから。じゃ!」
萩原紀はそう言って廊下を走り去った。
「萩原君?」
――なに? 今の。私のこと心配してくれたの?
まつりはあっけにとられ、そして、くすりと笑ってしまった。まつりの心がちょっとだけ温かくなった。気持が明るくなると、降ってくる雪までもが柔らかな暖かいものに感じられた。
悩んでいてもどうにもならない。振られるかもしれないけれど、思い切って要ちゃんに告白しよう。まつりはそう決心した。
迷い
「要ちゃん、いますか」
「あら、まつりちゃん。ごめんね。要は早くに出掛けて、今夜はそのまま忘年会だって言っていたから遅いと思うの。明日は祝日だし。何か用だった?」
瀬川のおばさんは、綺麗にお化粧をしていて病院で見た時より元気そうに見えた。
「いえ、また明日来ます」
――要ちゃんが出掛けたの、気がつかなかった。車があったからいると思ったのに……。
「咲子」
おばあちゃんがうつろな表情で玄関ホールへ出てきた。
「おばあちゃん、出掛けなきゃならないのよ。一時間位で戻ってくるからうろうろしないでくださいね。ほんとにもう、大丈夫かしら」
瀬川のおばさんは、喪服を着ていた。これからお通夜に行かなければならないのだという。
「あのう、私、お留守番していましょうか」
「えっ、でも……」
「おばあちゃんのこと危なくないように見ていたらいいんですよね。大丈夫です」
「そう、じゃあ頼もうかしら。有難う。助かるわ」
まつりは一旦家へ戻り、買い物に出掛けている母宛にメモを残してきた。
「いってらっしゃい」
まつりは瀬川のおばさんを笑顔で送り出した。
ちょっとどきどきしていた。それは、おばあちゃんを看ていられるかという不安からではなかった。少しでも要ちゃんに近づきたい。傍にいたい。そんな想いから何年振りかに足を踏み入れた瀬川家。以前と変わらない落ち着いた雰囲気の広々とした居間。ここで要ちゃんは生活しているのだ。そう思うと、まつりはどきどきした。
おばあちゃんは居間のベランダの前を、外に行きたそうにうろうろしている。
「おばあちゃん、足が疲れちゃうよ。こっちに座ろう?」
「でもねえ、咲子は母さんが帰るのをじっと待っているんだよ。川の側の家だから、寒くてね。薪を沢山くべるように言ってあるけれど、心配だねえ」
「咲子って、誰なの?」
「娘だよ。あんた、咲子のこと知らないのかい?」
おばあちゃんは不信そうな眼差しをこちらに向けた。
「よく知らなくて。そう、娘さんなんだ」
おばあちゃんの娘ということは、もうお母さんくらいの年? でもこの前、瀬川のおばさんが咲子は小さい頃に死んだのだといっていたけれど。
「あの子はねえ、器量良しで自慢の娘なんだよ」
おばあちゃんの優しい笑顔。でもどことなく寂しそうだ。
軽くため息をついたおばあちゃんは、ようやくソファに落ち着き、まつりも隣に腰掛けた。
「あれ? まつりちゃん?」
瀬川要が居間に顔を出した。
「お邪魔してます!」
まつりは緊張して、思わずソファから立ち上がった。
ちょっと派手なネクタイを締めた瀬川要は、もうほろ酔いのようだ。
「母さんは?」
「えーと、お通夜に行くって。それで、お留守番」
「なんだ、金を借りようと思ったのに。電話すりゃ良かった」
「これから忘年会?」
「ああ」
「要ちゃん、なんだか顔が赤い」
「少し飲んだからな」
「だいぶ飲んでいるみたいに見えるけれど?」
「世話焼き女房みたいなことを言うな」
「要ちゃんの奥さんになったら大変そう」
「どうして?」
「お酒代がかさみそうだから」
瀬川要は、にやっと笑った。
信じられないくらい、ぽんぽんと言葉が口から飛び出した。今まで通り冗談も言えるのだから、大丈夫。まつりはそう自分に言い聞かせた。
「要ちゃん、お見合いしたんだよね? 綺麗な人だよね。この前、街で見かけたの。その人と結婚するの?」
まつりは思い切って訊いてみた。勤めて笑顔で話したつもりだったが、顔が強張っているのが自分でもよくわかった。
瀬川要はそれに答えず、口の端で笑った。
「ちょっと俺の部屋へ来ないか」
「でも、おばあちゃんが……」
「玄関の鍵をかけておいたから大丈夫」
瀬川要はまつりの肩に手を掛け、並んで二階へ上がった。
さりげない要の行動は、まつりの心臓を早鐘にした。
瀬川要の部屋は煙草の匂いがした。本棚にベッド。硝子の丸テーブルが一つ。ベッドサイドにオーディオと、数本の吸殻が入った灰皿。簡素で整然と片付けられている室内。
「俺、さっき振られたんだ」
ベッドに体を投げ出すようにして座った瀬川要の口から、意外な言葉が飛び出した。
要は背広のポケットから煙草を取り出して、ライターで乱暴に火をつけ、ふうと煙を口から吐き出した。まつりにはその時間がとても長く感じた。
――振られたって、お見合いの相手に? 要ちゃんが?
苛々している要に、まつりはなんと言って良いのかわからず、その場に棒立ちになっていた。
「で、自棄酒。笑えるだろう? くそっ、あの女、とんだ食わせ者だった」
くわえ煙草の要の口から、信じられないような言葉が飛び出した。眼鏡の奥の、ぎらぎらした目。こんな瀬川要は見たことがなかった。
「俺のことが、好きなんだろう?」
唐突に腕を引っ張られ、まつりは傍へ引き寄せられた。煙草と酒の匂いが鼻につく。
いつもの優しい要ちゃんとは全く違う、別人のような要ちゃん。瀬川要は、紳士でも、王子様でもないのだ。生身の大人の男なのだ。まつりは勝手に想像を膨らませ、自分の都合のいい瀬川要を作り上げていたのかもしれない。そう気がつくと、瀬川要のことが急に怖くなった。
「クリスマス・イブ、一緒に過ごそうか?」
要の笑顔も、今のまつりには空々しいものに見えてしまった。
「要ちゃん、手、離して」
「まつり、どうした?」
作品名:プラタナス並木の道から 作家名:asami