プラタナス並木の道から
彼なりに気を使ってくれたようだった。
「……ありがとう」
「気持ち悪いな。俺ビンボーだから、これ以上は奢れないぞ」
「でも、どうしてソフトクリームなの?」
「女って甘い物食ったら、元気になるんだろ?」
「何よそれ。ひどい偏見」
萩原紀の気持ちが嬉しかったのだが、まつりは照れ隠しに口を尖らせた。萩原紀のおかげで、まつりは人前で泣かずに済んだのだった。
おばあちゃん
数日後、矢萩まつりは瀬川のおばあちゃんがまた入院したのだと母から聞いた。今度は必ずお見舞いに行こう。ついでに、要ちゃんのお見合いのこともそれとなく聞いてみようと思った。
瀬川要が若い女性と歩いているのを見かけてからまつりは顔を合わせづらく、瀬川要を避けていたのだ。
顔を見ただけで、泣いてしまいそうだったから。
「まつりちゃん、お見舞いに行ってくれるの? ありがとう。おばあちゃん、きっと喜ぶわ」
瀬川のおばさんが入院先を聞きに来たまつりに笑顔で応えた。それから顔を少し曇らせて、「でも……もしまつりちゃんのことがわからなかったら、ご免なさいね」と、つけたした。
「どういうことですか?」
「おばあちゃん、ボケちゃったの……」
まつりは何と言っていいのかわからなかった。目を見開いたまま、顔がこわばってしまった。
曖昧な笑みをうかべ、「そうですか」と言うのが精一杯だった。
ボケ老人。テレビドラマで見たことがあった。道に迷って家に帰れなくなったり、食事したのを忘れたり。何もわからなくなってしまい、色々なトラブルをおこしてしまうのだ。まつりにはそんな悪いイメージしかなかった。まだ入院して一週間程度だときいたが、あんなにしっかりしていたおばあちゃんがそんなに急にボケてしまうものなのか。
瀬川要のお見合いのことを訊くどころではない。お見舞いに行ってもどう接したらいいのか。行くといった手前、今更行かないわけにはいかなかった。
決心を決めた頃には外は薄暗くなっていた。夕方、まつりは一人で病院を訪ねた。瀬川のおばあちゃんは三人部屋のドア側のベッドに座り、ぼんやりと何もない壁を見つめていた。
まつりが声をかけるのに戸惑っていると、おばあちゃんはこちらに気がついて、
「あらあ、来てくれたの」
と、うつろだった表情が一変し、顔をほころばせた。
おばあちゃんの優しい笑顔を見て、まつりはようやく「こんにちは」とぎこちない挨拶をした。
――なんだ、ちゃんとわかっているじゃない。
自分が来たことを喜んでくれたおばあちゃんの姿に、まつりはほっとした。
病衣を着て、髪はぼさぼさだったが、今までとなんら変わりない、笑顔のおばあちゃんだった。だが、次に続いたおばあちゃんの言葉にまつりは耳を疑った。
「まだ迎えが来なくてねえ。遅いねえ」
「おばあちゃん、退院するの?」
おばあちゃんはドアの方を覗き込み、顔を寂しそうに曇らせている。入院したばかりのはずなのに。
「咲子、ちょっと見てきてくれないかい」
「え?」
咲子って誰? まつりはきょとんとした。
おばあちゃんの目が異様に爛々としている。よく見ると、ベッドの足元には薄いマットが敷いてあり、どうやらそれはベッドを降りた時、センサーが感知して知らせるもののようだった。
病室に顔を出した看護師に、まつりは声をかけた。
「あの、瀬川のおばあちゃん、今日退院なんですか?」
「瀬川さん? まだ退院は決まっていないけれど。お孫さんかしら?」
「いいえ、違います。私、向かいの家に住んでいて……」
「あら、そうなの。瀬川さん、可愛いお友達が来てくれてよかったですね」
看護師はおばあちゃんの顔を覗き込み、にこやかに話し掛けた。
「看護婦さん、まだ迎えが来なくてねえ。家に電話してくれないかい」
「そう、じゃあ電話しておきますね」
「心配だからそこまで見に行ってこようと思って」
「もうそろそろ瀬川さんのご家族が来るはずなんだけれど。今日は遅いわね」
看護師はぽつりと呟いた。
夕方になるといつも家に帰りたがり、大抵この時間にお嫁さんに来てもらい、気の済むまで廊下をぐるぐると歩いてもらっているのだと、看護師は少し困ったような笑みを浮かべ、まつりに小声で教えてくれた。
「瀬川さん、お嫁さんが来るまで私と一緒に歩きましょうね」
「私、代わりに行ってもいいですか?」
「大丈夫? 転ばないように気をつけてあげてね」
そう言って看護師は病室を後にした。軽い気持ちで申し出てしまったのだが、まつりはすぐに後悔した。大変だったのだ。おばあちゃんは一階に下りたがり、誘導した方には進んでくれない。杖を持っているのだが、宙にぶらぶらさせてしまい、上手く使えずにふらふらしながら歩いていた。
「まだ着かないのかい?」
まつりは何も答えられず、黙って歩いていた。
――どうしよう、何か話さなきゃ。
何と声をかけたら良いのか、まつりは頭の中が真っ白になった。
廊下の角に、瀬川のおばさんの姿が見えた。途端にまつりは肩の力が抜けた。
「まつりちゃん、ありがとう。おばあちゃん、もう夕食の時間だから部屋に戻ろうね」
「家に帰らないと……」
「おばあちゃん、無理を言わないで」
「咲子が待っている。帰らないと」
「なに言ってるの! 咲子さんは小さい時に死んじゃったじゃないの!」
瀬川のおばさんが急にきつい声でおばあちゃんを怒鳴った。おばあちゃんは目を瞬かせ、びくりと体を強張らせた。
「おばあちゃん、お願いだから部屋に戻ろう?」
瀬川のおばさんは慌てておばあちゃんに優しく声をかけた。
「まつりちゃん、驚かせてごめんなさいね。つい怒鳴っちゃって。おばさん、だめね。まつりちゃん、今日は本当に有難う。また来てね」
家に訪ねたときには気がつかなかったのだが、弱々しく微笑んだ瀬川のおばさんの目は充血し、疲れているようだった。
おばあちゃんは手を引かれながら黙って病室へ戻っていった。
いつも優しい瀬川のおばさん。上品な感じでスタイルも良くて、あんな人がお母さんだったらと憧れていた。そのおばさんがやつれて見えた。あんなに取り乱したおばさんを見るのは初めてだった。まつりは見てはいけないものを目にしてしまった気がした。
――おばさんはきっと、こんな姿を見られたくなかったのではないか。おばあちゃんだって……私のことがわからなかったおばあちゃん。そんなに簡単に忘れてしまうものなの? ……来なければよかった。
まつりは沈んだ気持ちで、真っ暗になった雪道をバス停までとぼとぼと歩いた。
焦り
あれから、まつりは一度もお見舞いに行かなかった。おばあちゃんに会うのが怖かったのだ。
一週間が過ぎる頃、瀬川家の庭先におばあちゃんの姿があった。
だが、その姿は少し奇妙だった。雪の中、オーバーも着ずに大きな風呂敷包みを背負っている。
どうしたのかと窓から見ていると、瀬川のおばさんが慌てて出てきておばあちゃんを家の中へ連れ戻した。
「今朝退院したんですって。病院では心臓のほうは落ち着いたって言われたって。それに、帰りたがって仕方がないからって。認知症のほうが酷いらしくて大変みたいね」
母が掃除機の手を休めてまつりの方を向き、そう言った。
「ふうん」
作品名:プラタナス並木の道から 作家名:asami