先輩
「りんごちゃんに負けないくらいあたしも色々と頑張らねぇとなぁ! 頭も悪いしお金もねぇけど、何とかやってみるわぁ! じゃ、そろそろ行くね。立ち話ごめんねぇ〜」
勝山先輩は連絡通路をどしどしと音が鳴っているかのように駆けていった。
「アッ子先輩すごいね。……Aクラスに入っちゃうなんて」
「ほんとにすごいよね。いろいろ大変な事あったのに三年生でAに入れるなんて、偉いよ」
「努力家なんデスね」
並大抵の努力じゃないだろう。二年生に上がった時にAクラスに移る生徒は結構いるが、三年生からAクラスに移動する生徒はごく僅かだ。それよりAクラスから他のクラスに強制的に移動させられる生徒の方が多いと聞く。ましてDクラスからAクラスに上がる人なんて、このクラス分け制度が出来てから初のはずだ。
一年の頃、部活の先輩に三年のクラス分けテストを見せてもらったが、Aクラスに入るための問題の難しさは格が違った。私が今から一年間精一杯勉強をしても、Aクラスに入れるかどうかは微妙なところだと思う。そんな難解な壁を越えた勝山先輩は本当に偉い。
最近は少子化による生徒不足が原因で、昔よりは偏差値の高い高校でも入りやすいらしいから、どうにか勝山先輩にはいい高校へ受かって欲しい。学校側も推薦をするなら勝山先輩のような生徒をするべきだと思う。
体育館を出て五メートルほど歩いたあたりで私たちは話していたので、さぞかし通行人には邪魔だっただろう。私はまだしも、リンはコントラバスだから道を大幅に狭くする。
そろそろ一般の生徒たちが来そうなので、私とリンは楽器を戻しに準備室へ向かった。私たち以外の部員はとっくのとうに楽器を締まって教室に戻っていたようなので、また私とリンの二人だけで黙々とケースに締まった。
ドアの鍵は、Dクラスの二人組が壊したままなので開いていた。先生に知らせるか迷ったが、ここまで大袈裟に壊れてれば既に副部長が伝えてあるだろうと思い、そのまま教室に向かった。
準備室を出るときにチラッと音楽室に視線を向けたが、そこはいつもの音楽室と変わらなく、何者かの気配も全く感じなかった。
二年の教室は、一年の教室よりはまだマシな程度で、古さは変わらなかった。
黒板に座席表が貼ってあったので、私とリンはそれを見て自分の席に座った。運よくリンとは隣同士だったからよかった。また去年のように楽しい学校生活を送れそうだ。
席に着いてからは、今日の出来事を振り返っているのか、リンはじっと俯きながら一言もしゃべらなかった。
五分ほど経った頃に、他の生徒達が教室へ入って来た。クラスメイトは、去年のBクラスとほとんど変わらなかった。他のクラスから移動してきたと思われる、面識のない生徒も何人かいたが、特徴のない普通な生徒ばかりだった。まぁ、DクラスやCクラスを代表するような金髪や怖い生徒が移動してくるよりはマシかもしれない。
担任の先生も去年と同じ伊藤先生だった。優くて男女にも平等だからいいが、なんとなく面白味に欠けた。
生徒が全員揃い、教壇の前に立った先生が話を始めた。
三年生が体育館に遅れて集まった理由については何も話されなかった。リンが小声で、「やっぱり見に行ってよかったデショデショ?」と言った。確かによかったけれど、その分怖い目に遭ってしまったのだから、複雑な気分である。私がそう言うと、リンはフフフ、と笑ってそのまま黒板の方へと視線を戻した。
今後の予定や新しい時間割りの書いてあるプリントが配られたところで、今日は授業がないため、すぐに帰りとなった。今日は普段授業がある日より何倍も楽なはずなのに、私は午前中だけでかなり疲れてしまった。休み明けも理由のひとつなのだろうが、それでも今日だけで大きな出来事がいくつも起きた。体力的な疲れというより、精神的な疲れなのだろう。
「リン〜、今日自主練してく?」
リンも私と同じくらい疲れているだろうが、念のため聞いてみた。
「うん。さっき弾いてみて分かったけど、休みの間に腕落ちちゃってたから、ちょっと練習してく!」 私とずっと行動を共にしていたというのに、自主練習していくなんて、リンの精神力は意外とすごいのかもしれない。外見も私は猫背になってへとへとになっているのに対して、リンはいつも通りハキハキしている。
「偉いねぇ。私は今日色々あって疲れちゃったから、先帰るね」
「確かにみーちゃんは誰が見ても疲れてる、って分かるくらい疲れてるね。帰ったらゆっくりやすんでね。じゃ、ばいばい!」
リンはそのまま教室の外へ消えた。リンにまで心配されてしまった。普段は私が心配する方なのに。
私は大きく深呼吸を一回してから重い足を上げて歩き出した。
Cクラスの連中に会うと、茶化されたりして色々と面倒だから早足で階段を下りた。さっきは逃げることだけを考えていたから気付かなかったが、二年校舎の階段は段が多く、微妙な角度なので、降りるだけでも足が少し痛くなった。体力的な疲れもあるのだろう。
帰りは裏門ではなく正門から出た。裏門のあたりは木の枝を切っていて、通りにくかったからだ。
門を出て右へと顔を向けると、下校している生徒は二三人ほどしかいなかった。私のクラスが他のクラスよりも早く終わってしまったのかもしれない。
私は体ごと反対に向けて、家の方へ歩こうとしたその目線の先に――、
四五歩進んだあたりのところに、人形のような顔をした男子生徒が立っていた。
そう。あの時私とリンを助けてくれた、私が初めて一目惚れしてしまった、
――馨先輩が立っていた。
私は突然の出来事――再会ともいうのだろうか――にかなり動揺した。疲れの所為もあるのか、体が熱くなって少し眩暈がした。心臓がこれでもかというくらいどくどくと鳴っている。何かを探しているのだろうか、立ち止まってきょろきょろと周りを見ている。こちらからは顔が見えなかったのでよく分からなかった。
男子生徒と会っただけで、こんな状態になるのは生まれて初めてだった。去年の吹奏楽コンクールでの演奏で、ソロパートを吹いた時も緊張して似たような状態になったが、今の状態は、もしかしたらそれ以上かもしれない。
なんなのだろう……。この感じ、この気持ちは。
ただ緊張しているだけなのか。誰かを好きになるという気持ちは、こういうものなのか。
――馨先輩と話したい。
何故だかわからないが、そう思った。それなのに、どんなことを話そうとしているのか、話したところでどうするのか、自分のことのはずなのに全くわからなかった。
そもそも私は馨先輩と、まだ一言も話していない。あの時馨先輩に「大丈夫だったかい?」と聞かれた時も、緊張して何も答えられず、代わりにリンが答えたてくれたのだ。
しかし、ただ普通に話したい、しゃべりたいだけなのに、何故こんなに緊張しているのか。いくら好きになってしまったからといっても、緊張し過ぎだと自分でも思う。
それでも頭が回らず、緊張は解かれるどころか増す一方だった。頭がパンクしそう、とはこういう状態なのか。
背中に一滴の雫が流れた。気付くとYシャツの背中から腰のあたりが湿っていた。四月初めなのに、私は大汗をかいていたのだ。