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熾(おき)
熾(おき)
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月のあなた 上(5/5)

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☽ (十四)2/2



 真っ暗な部屋に、柔らかいノックの音が響く。

「ひな、入るぞ」

 扉が開き電気が点けられても、日向はベッドに突っ伏したままだった。
 そのベッドの脇にある窓ガラスの向こうから、二羽の黒い鳥が心配そうに覗き込んでいる。

「ナナエ、ヤエ、ありがとう」

 穂乃華が声を掛けると、二羽は頷いて木の梢へと戻って行った。
 穂乃華は持っていたコップを乗せた盆を学習机の上に置き、携帯電話を取り上げて、『リデンプション・ソング』を停めた。 

「あったかい飲み物、あるぞ」

 言って片手で椅子をベッドに向け、腰かける。

「どうやら、自分で何とかできたみたいね」
「……」

 暫くして、日向は顔だけを横に向けて、姉の方を見た。

「ひどい顔だな」

 穂乃華は学習机の上のティッシュに手を伸ばすと、妹の前に置いた。
 日向は鼻を噛んだ。

「お姉ちゃん…どうしてわかったの?」

 姉は肩をすくめた。

「わたしにも起こったからさ。突発的な衝動が」
「え――? 母さん、昨日のビデオでは何も云ってなかったよ」
「多分第二部で言うつもりだったんじゃないかな? 一部だけでも日常生活を送るには十分だし、こういうのは滅多に起こる事じゃない。…というか、母さんとしてはもう二度と起こらないと信じていたんだろうから」

 日向ははっとしてベッドの上に座り直す。

「それって…やまとっていうのが関係する話?」
「そう。そして、純然たる美津穂国民のわたしたちには関係ない話だよ。本来はね。ただもう満月が近い上に、やっこさんどうも近くまで来てるようだから、体が外敵を迎え撃つコンディションを作ろうとし始めてるんだ。だから小さな感情の変化でも、吸血衝動に繋がってしまう」

 姉は落ち着いてかみ砕くように説明した。

「そうなんだ」

 日向は俄かに表情を明るくした。
 穂乃華は立ち上がりながら盆の上に置いていたマグカップを差し出す。

「うん。だから、当分大人しくして、外出を少なくしよう。学校も、部活動とかは早めに切り上げて、日が傾く前に帰るんだ。厄介事に巻き込まれない様に」
「わ、わかった…」

 自分だけのせいではないのだと安心しつつ、一方で、やはり自分は特殊なのだと自覚する。

「相手は単体らしいからすぐにつかまるだろう。和家の方も動いてる」
「…それって、港を襲った?」

 穂乃華は頷く。

「外来種だ」
「だめだよ――桜垣なんか来ても、人も多くないのに」
「人が目的じゃないんだろう…多分」

 穂乃華は呟くように云った、

「…それって…」
「わからんね。最初の一人は無残なもんだったが、以降の行動は慎重だ。ニュースじゃ突発的な貧血と衰弱症状が地域に集中してるってことだが、要は吸血だ」
「じゃあ、わたしたちと」

 同じ種が、と言おうとしたが穂乃華は首を振った。

「日向。吸血鬼だけが吸血種じゃないよ。傀儡化や不死の能力を伴わない吸血ならマレウドの大半にはその素質がある。オニは人を喰うんだから…問題は、この吸血が外傷や、もちろん組織変化も伴っていないということだ」
「?」

 日向は、半分くらい話についていけていなかったが、黙っていた。
 姉が、マレウドの知識をここまで話してくれることはまれだった。

「外傷を伴わずに生命力を摂取するには通常一つしかない…祀られることだ。祀られるっていうのは、文字通り信仰の対象になることでもいいし、ただ、生命力が流れ込んでくる場所に居る、ということでもいい。つまり…そんな吸血術式をもってる奴は、いっぺんどっかで神様をやったことがある奴なのさ。美津穂式の意味での神様だけどな」

 日向は緊張から唾をのみ込んだ。
 マレウド。
 漢字は〈希人〉。
 昔の美濃人言葉で「マイノリティ」を指すことば。

 それは即ち、オニとよばれ、妖怪と呼ばれ、或いは、あやかし及びもののけと称される存在だ。
 美津穂では特に平安中期から鎌倉時代を境にして、これらの少数人種を体系的に理解し、集団的に把握する動きが活発となった。以降、欧州における魔女狩り及び吸血鬼伝説等、多くの中世史に見られるように、マレウドと通常人とは大小の断続的な衝突を繰り返しながら近代を迎えた。

 現代では、吸血鬼が吸血衝動の抑制によって社会に溶け込んでいるように、他のマレウドもそれぞれの業を飼いならして生活を営み、自分がマレウドであることなど一族以外には明かさないのが普通である。

 それは丁度、一般人には真実が伝わりにくいが故に偏見を受けやすい遺伝形質や伝染病を持っている者が、それを隠そうと振舞うのと同じである。
 ただし、その病気が社会に実害を生みうることもまた真実である以上、ことを荒立てないための機構は必要であった。
 
 これを〈大和〉と呼ぶ。
 
 現在、美津穂の八割以上のマレウドのIDが大和により登録・管理されているという。穂乃華は、中学生の時から母・しろと共にその統括組織のメンバーであった。
 だが、日向は普通の人間として生きるよう育てられた。故に大和に登録さえされていないマレウドであり、マレウドとしての一般常識も、このように折に触れて家族から与えられるだけである。しかも姉は、母の死を境に極端に日向に対して「知らしむべからず、寄らしむべからず」の方針を採り続けていた。

 今も穂乃華は、説明していること自体が忌々しそうであり、日向の顔を見ていない。

「ナナエから聞いたろうが、一時期和家方面で獣や鳥たちが行方不明になった。いずれも零力を持つもののけ――つまりマレウド化して知能を持つが故に他種とコミュニケーションが取れるレベルの連中だが、これが巣に戻った段階又はその手前で突然死するケースが報告されてる」
「…!」

 日向は今朝のカラスを思い出した。

「刃を持つ時限爆弾の様なものが仕掛けられてな」

 日向は膝の上で拳を握る。

「どうして、そんなことを」
「恐らく…」
 穂乃華はそこまで云って、身を乗り出して来ている日向の顔を見た。

「さあな、ことを荒立てずに殺したかったか、帰巣させたあと仲間の前で引き裂くことで、もののけを怯えさせているんだろう」
「そんな」
「兎に角、派手な行動もしないが、予測もつかない相手だ。何より、身を隠すのが上手い。…そんな相手が近づいてるんだ。〈大和〉に守ってもらえない私たちは、一にも二にも用心さ。わかったな?」

 日向は素直に頷いた。

「うん、わかった」
「よし」

 穂乃華は日向が呑み切ったマグカップを取り上げると、椅子から立ち上がった。

「夕飯作るから、宿題でもやってな」
「うん」

 日向がベッドの上から見送っていると、穂乃華は扉を閉める寸前に立ち止まった。

「…もし万が一、この付近にくるようなことがあれば、その時は――」
「母さんの部屋だね」

 穂乃華は横顔で頷き、扉を閉めた。

  *

 夜の月が出て、祇居は滝の前に居た。
 
 それは轟音を上げる生吹山(いぶきやま)一の霊場。
 滝壺の周りは大きくえぐられて清水の池となっているが、水面は湧き上がる飛沫に包まれてほとんど見えない。
 祇居は白い袷だけを身に纏って、水温十度前後の池に歩いて入って行った。