小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
熾(おき)
熾(おき)
novelistID. 55931
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

月のあなた 上(5/5)

INDEX|5ページ/13ページ|

次のページ前のページ
 

 やがて視界は完全に霧の中となり、足は水底の砂利に届かなくなる。
 祇居は、平泳ぎから潜水して一気に魚の如く全身をくねらせつつ滝の直下まで進んだ。
 首をへし折るような何トンもの水圧が上から轟々と押し寄せ、水中に居る祇居の身体を浮き上がる度に下へ、下へと沈めた。
 やがて白の袷が浮き上がり、池の縁に打ち寄せた後も、少年は浮上してこなかった。

 泡立った暗い水の中で、祇居はうっすらと目を開けていた。

(僕はいったいどうしたんだろう。)

 肺は、完全に空気を失った。
 体は砂袋の様に重く、沈んで行く。

(いや…ちがうか。ぼくは…いったいどうしたいんだろう。)

 完全に新鮮な空気が絶たれてからしばらくして、末端から感覚が削がれていく。
 体が快楽に似た浮遊感に一瞬包まれたが、脳はすぐに信号を切り替えた。
 何をしている、死ぬぞ!

(ああ、苦しいな)

 あの子が欲しい。あの子が分からん。

(どうして?)

 月光を浴びて僅かに白い水面が遠ざかって、祇居は闇の底に降りていく。
 最後に脳からも酸素が失われ、苦痛さえも安らいで行く。

(あの子…あの子ってだれだっけ…)

 水の中にも酸素は有るが、祇居の身体にそれを採り入れる機能は無い。
 今しばらく時間が過ぎれば、脳も神経も再起不能となるだろう。
 
 都合がいい。
 このちっぽけな体では抑えきれないほど、あの子が欲しいのだ。

 脳が最後の一瞬に、闇の中にその映像を映し出した。
 鳥の死骸を胸に抱きしめて佇む少女。

(あの時、ぼくがあそこに居たかった。ぼくが、いたかった。)

 美しい肌と煌めく髪の、堕ちた翼を両手に掬う少女。 

 ”この者を、このままにしときとうはない。”

 竹林の青い影を背後に切なく笑いかけてくると、その瞳から溢れた光が直接、胸の中に流れ込んでくる様だった。

 ”…この者は、青い空の便りを、帳の内から出られぬわたしにも届けてくれていたのだ。”

 屋敷の門には行列が出来ていた。
 姫は会うとおっしゃっておられる。ただし、他の方の後である。
 日が傾く。
 飽いた主人と取り巻きが、憂さ晴らしに烏を射る。
 その烏は、胸を貫かれながらも最後の力で塀の中に入り、落ちた。

 景色悪しと見てとった主人らは、直ぐに退散した。
 はしたない。ばれぬと思えば詫びの一つも入れられぬのか。

 忍んで行った先、玉砂利の敷き詰められた庭の中心に翼は落ちていた。
 使用人が廊下の奥に消えたのを見計らって、それを回収しようとした時だった。

 縁側の衾が開いて、輝く者が現れた。

 それはまるで、辺りを照らすような輝きだった。その者は裸足で庭に走り出ると、砂利の上の赤い滲みの前で膝を着いた。
 思わず一歩足が出ていた。
 取り乱していた姫は、それとも本来人を疑う性質でなかったのか、その〈者〉に対する思いを吐露し始めた。

 ”――そなた、弔ってくれると言うのか? 出かけられぬわたしの代わりに?”

 単衣(ひとえ)の裾よりなお長く、流れ拡がる銀の髪。目にしたものの全てを射ぬく、赫(あか)い金の瞳。それが、子どもの様な無邪気さで微笑み、跳ねる。

 ”ありがとう! ありがとう! そなた、名は?”

 名など無い。ただあなたを美しいと思う者。

 ”こんなもの、良くもない容貌だとおもうのだが…そなたは、深い御こころで云っているのか? 徒(いたずら)ではなくて…?”

(徒(あだ)ごころなどであるものか!)

 彼が眼を開くと、蒼く冷たい色になっていた。

 彼はそのまま滝の下から飛び出し、月に向かって一気に跳ね上がる。
 ぐんぐんと視界は地上から離れ、森は眼下に広がり、月は遠く東南東の空に輝く。その光に、闇色に染まった手を伸ばす。
 掴みたいと思って、彼は泣き叫んだ。
 だがそのまま力が抜けて、体が大地の見えない手に引っ張られる。

 轟音と水しぶきが再び彼を包んだ。

  *

「…いちゃん。しいちゃん!」

 妹の声で目が覚める。

 祇居は滝の池の縁にうつぶせになって、身体が冷え切っていた。
 まだ少し夢うつつのまま、目に涙を溜めている凜に声を掛ける。 

「凛…ごめん。…お兄ちゃん、あのお姉ちゃんとちゃんと話せなかった」
「ううん、いいよ。…凛には、お兄ちゃんが居てくれればいいから」

 祇居は打ち上げられていた水浸しの袷を着直すと、家に戻った。
 家では母が風呂を沸かし、夕餉を用意してくれていた。
 祇居は頭を下げ、風呂に入り、食べて、そして自室に戻った。

 布団に入り眼を閉じると、頭の中ではまた水のイメージが浮き上がって来る。

 水は身体を覆い、闇の中に引きずり込んで行った。