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熾(おき)
熾(おき)
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月のあなた 上(5/5)

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ユア・ヒア



 ホームルームと一限目は特に何もなく過ぎた。

「またギリ登校か、お二人さん!」

 という割には日向だけの背中を叩いて晶が登場した。
 例によって法子は隣で微笑んでいる。

「あ…うん」

 弱弱しく微笑んだ日向をみて、晶は間違ったものを飲み込んだような顔をした。

「のりっぺ、ひなたちゃんがこわい」 
「…どゆことよこら」
「お、調子でて来たな――」

 その時クラスのドアが開いて、教員がクラスに入って来た。

「クラス委員、クラス委員、男女とも――あ、世界史の細田です――クラス委員」
「はい!」

 日向は飛び上がるように立ち上がった。

「はい」

 祇居も直ぐに駆けつけてくる。  

「男子は」

 細田は一瞬首をかしげたが、

「男子です」
「そうか」

 素直に頷いた。
 あまり物事に頓着しない性質だった。

 細田の背は日向(一五〇ジャスト)より高いが祇居(一六〇余り)より低い。
 そのためか殆ど日向だけを見ながら、細田は指示を下した。

「うん。いますぐ図書館の所蔵室に行って、このメモにある地図のレプリカをもってきなさい。うん。タブレットじゃだめだ…昔の人は紙を見て考えたんだ」

 ぶつぶついいながら、握っていた箇条書きのメモを手渡す。

「壁掛け地図五本…、二人要る。まあ見つけにくいかもしれんから、五分や十分の遅刻は許す。先生はプレゼンを練り直さねばならん。うん。私のIDを持って行きなさい。五階からじゃなくて、七階から入って行くんだ。開ける時はぴッ、って感じでな、閉める時はぴッ、ぴッ、って――」

 細田はIDを振りながら、早口でまくしたてる。
 どうやら今さっきの思いつきによる行動らしかった。

「…先生、それって…規定違」

 IDを受け取った日向が小声で指摘しようとすると、

「うーん? 先生は貢献度を成績に反映させるぞッ。ペーパーの結果じゃなく」

 細田は指で眼鏡の縁を抑えながらごり押しした。

  *
 
 一分後、日向と祇居は昨日の昼休みと同じように、教員用エレベーターの中に居た。
 教員用エレベーターは、主に最上階にある職員室から教員が各教室に向かうために使用するもので、教員の指示があった時や体調不良などの場合を除いて、生徒には許可されていない。

「……」

 日向は、壁の脇に貼られているプラスチックの板を眺めた。

〈エレベーターの無許可使用を報告した生徒には生活指導面における評価を検討します。これに関し狂言を行った者には停学以下の処分を検討します。 学園長〉

 奇妙な凄みを感じさせる注意書きだった。

 五階で一旦止まると、何故か生徒も教師も降りて、二人きりになった。 

「……」
「……」

 十秒にも満たない沈黙だったが、海の底に沈められていくような思いがした。
 最初の三日やたらと話しかけて来たことを考えれば、沈黙は逆に無気味だった。

(まさか、ほんとに話しかけないようにしてくれたのかしら?)

 日向が隣の、ずっと前だけを見ている祇居を横目で伺った。
 水辺に咲く花の様な清涼な香りが漂う。

(あれ、こいつ――)

 描かれたような鼻筋、刷かれたような眉と睫、静かな瞳。
 流れる髪と白い頬。

「ついたよ」
「え? あ――」

 いつの間にか七階についていて、祇居が〈開く〉ボタンを押していた。そのまま無言で動こうとしない。
 日向はとっさに、自分も車いす用の〈開く〉ボタンを押して対抗した。

「ど、どうぞ?」

 また数秒沈黙があったが、祇居が鳥の尾の様な髪を翻して横を振り向いた。
 この時日向は初めて落ち着いて、学校で、祇居を正面から見ることが出来た。

「…きみが嫌がることは、ぼくは何もしないよ」

 黒い潮のような瞳だった。その奥には、青い輝きが揺らめいていた。

(きれいな瞳(め)――。)

「それで、いいかな」
「え? ――あ、うん。当然だよ」

 日向はすぐに唇を尖らせると、ボタンから手を離して先に出た。

 二人は吹き抜けの円廊に出た。
 七階ともなれば空が近いように感じる。
 目の前を歩く日向に太陽が降り注いでいるのを、祇居は眩しそうに眺めていた。

 既に授業時間となっており、なんとなく後ろめたいような気分に襲われながら、二人は教員用通用口を潜って図書館に入った。
 廊下を挟んで直ぐ正面に、〈所蔵室〉のプレートが張られた扉があった。
 祇居が動く前に、日向はノブを握って先に入った。

  *

「すごい…」

 日向はため息を吐いた。

「そうだね」

 後ろからついて来た祇居も相槌を打つ。
 天井まで届く壁を為す陳列棚――床も家具も全て蜜色に輝く木材で、壁から突き出た腕に掛かったランプに照らされて反射し合い、室内全体が琥珀色に輝いていた。
 棚の中には種々の模型、歴史資料らしき不完全な陶器銅器鉄器、宝飾。床の中心に巨大な地球儀。それを中心に対角線上に据え置かれた四つの閲覧台。その他部屋の空きスペースには至る所に彫像、鎧兜、獣のはく製などが立ち並ぶ。

「所蔵室は二室に分かれてるのか…、地図があるのは奥の方だね」

 日向が呆けている間に、祇居はタブレットで情報を確認していた。

「ふ、ふーん」

 いつの間にかこの美少女もどきとの会話が再開されていることに、日向は妙な後ろめたさを感じた。

(だ、駄目だよ。気を許したら。)

「こっちだ」

 祇居はガイドするように、日向の隣を歩く。
 日向は顔を横目で盗み見ようとするが、少しでも祇居が振り向くそぶりを見せると、目線を逸らした。

「地図は全部で五つ。三つは僕が持つから、二つは持ってもらっていい?」
「う、うん。いんじゃない」

 リードされていることを気取られまいと、日向はひたすら陳列物に目をやって、頷いたりした。
 奥の部屋は構造は略同じだったが、読書台や机などが無く、代わりに通路に溢れだすほど所蔵物が並べられていた。さらにその多くが、ほこりをかぶっている。

「屋根裏部屋じゃん」

 思わず漏らすと、祇居がくすりと笑った。
 気にせずにずかずか前へ進んで行ったが、何故か頬が熱かった。
 
 どうやら、本当に敵意は無いようだった。

(…ま…じゃ…これで仲直りかな…?)

 ともだち増加! そう思うと、口の端が自然に上がって来てしまう。

(まだ早い!)

 日向は目をつぶり、両方のほっぺたをつまんで下へ引っ張った。

「?」

 祇居はその独り相撲を、首を傾げつつも邪魔しない。

「地図は、西側の壁の奥に纏められてるみたいだね」

 タブレットを眺めつつ声を掛けると、だが今度は返事が無かった。
 顔を上げると、日向は雑多な陳列物の奥で、突き当りの壁を向いて止まっていた。

「月待さん?」

 日向は目を凝らしていた。

 ガラスケースに据えられた、一メートルほどの凹んだ円盤。
 それはいい。
 やや鈍い輝きを放っている。それもいい。
 付属のプレートに〈鏡〉と書いてある。それはどうだろう。
 〈十四世紀以前〉。まずいかもしれない。〈錫アマルガム〉。それはだめだ。
 水銀は、人体に毒だし、人じゃない体には、もっと都合が悪い。