月のあなた 上(5/5)
日向は瞬きを繰り返し、そして、体を捻ったり、小さく万歳してみたりした。
(――ない。)
すっと体が冷えた。なのに、汗がこめかみから幾条も垂れてくる。
「月待さん?」
まずい、と思って振り向いたときには、祇居は自分の後ろ数メートルのところまで歩いてきていた。
心臓が駆け足を始めた。
脳のどこかから真っ赤なアラームが最大限に鳴っている。
(どうして、こんなところに中世ヨーロッパの。)
それは、初めて家族で博物館に行った時から厳重に注意されてきた事だった。
「どうしたの?」
水辺の香りが近づいてくる。
「どうもしない」
思い切り目を瞑り、開ける。
やはりそれは、”制服にしか”見えない。
「月待さん」
「きちゃだめ」
ああ、ちがう。そうじゃなくて。
「…? その鏡、どうかしたの?」
やはりそれは、紺のブレザーに光る若葉のブローチ。
純白のブラウスと赤いリボン。
ブレザーと同色のスカート、白い靴下に黒い革靴――
”以外のものには”、見えない。
「なんでもない」
なんにもない。
祇居が近づいてくる。
日向は振り返って、とおせんぼをするように両手を拡げた。
「なんでもないの。ちがうの」
ちがうよ、わたしはここにいるよ。
「なにを」
祇居は足を止めた。表情が止まった。
日向はもう一度肩ごしに後を振り向く。
そこにははっきりと、祇居の驚いた”顔”が映っていた。
「――あ」
日向はその場に膝をついた。
目に涙があふれて、前に崩れ落ちた。
両手の爪を立てて髪を掴み、そのままの姿勢で泣き叫んだ。
「……ちゃった! たったいっしゅうかんで! たのしかったのに! おわっちゃった!」
降伏だった。
それ以外になかった。
口封じなど考えつきもしない。
祇居は一歩後ずさるだろう。
それから一目散に誰かを呼びに行く。
彼の言うことより自分の言うことを信じてくれる人間なんかいないだろう。
みじめだった。
砂のお城を波にさらわれた子どものようだった。
「ああ、そうか」
だがその時、祇居は一歩前に出た。
やっと何もかも納得が行ったのだった。
ほほえみと共に、安堵のため息が出た。
「わたしはっ…もう、がっ。がっこうに…これない…」
床に蹲ったまま震えている日向の前に、祇居も膝をついた。
「なんで? これるよ」
「わたしは…ここにいない…ここに、いられない…」
闇の中に呟いている日向の背中に、そっとだれかの掌がのった。
「…?」
日向が体を起こすと、驚いたことに、まだ男女の同級生はそこにいた。
涙としゃっくりがとまらないまま、尻餅をついた姿勢で、祇居を見る。
祇居は手を伸ばすと、ゆっくりと頬に触れた。
「ぼくの眼を見て」
日向は云う通りにした。
さっき見たのと同じ、海の様に深く、そして静かな輝きを持つ瞳だった。
そこには、自分が映っていた。
「きみは、ここにいるよ」
日向は、祇居の目を覗きこんだまま、恐る恐る自らの頬にあてられた手に触れ、握りしめた。
祇居の眼の中にいる日向も、たしかにそうしていた。
「だいじょうぶだよ」
頭の中でちかちかしていた赤い色が遠ざかって、澄んだ水辺の匂いが入って来る。
日向はそのまま前に倒れ、額を祇居の胸に押し付け、
「……みないでよ…」
相手のブレザーの襟を、両手で強く掴んだ。
作品名:月のあなた 上(5/5) 作家名:熾(おき)