月のあなた 上(2/5)
前に出るのだって、先生に従う意思を見せるため。
それで隣の席の紅い瞳の女の子のことを、みんなが忘れる。
それが普通。
あたりまえのことを、普通にやるんだ。
普通の。
その、羽根が付いているかのように、真っ直ぐ伸びた、前へすすむ背中。
(ふつうの――)
蜜柑の手はチョークを掴んでいた。
小学校以来の、石灰の手触りだ。
太古の海の生き物の骨と殻だ。
人はきっと地球上ではじめて、壁に石で描いた動物だ。
蜜柑は、中学の教科書に載っていた壁画を思い出した。
何を言おうとして?
僕たちには手があった。
僕たちには声があった。
ぼくたちは
ぼくは ここにいるよ
わたしはどこにいるの?
心の中に昨日の、今朝の、両親との会話が甦った。
本当に必要な重要なことは何一つ言わなかった。
その前の日も、その前の前の日も。
その前の日もずっと。
声があるのに。
言葉が話せるのに。
いやだともやめてとも言わないかわりに、ありがとうとごめんなさいも忘れていた。
わたしはここにいるのに。
普通の。
素通りして
(知るか。)
知るか知るか知るか知るか知るか―――!
手首は自然に上がり、かっと小さな欠片を零して、チョークは滑り始めた。
そして筆記具は、世界に文字が生まれた時、家族に子供が生まれた時、そして己の誇りを込めた仕事を終えた人間によって、必ず行われた行為の助けとなった。
四文字を背に負って、蜜柑はクラスを振り向く。
「大甘、蜜柑です! 実家はパン屋です! 本が好きです、どうぞよろしく!」
それだけの事を言い切るのに、まるで何分も息継ぎなしで、泳ぎ切った様な苦しさを感じていた。
頭は熱く、肩で息をしていた。
教室を見渡すと、クラスメートは全員又呆然としている。
日向もまた、驚いた顔で自分を見ている。
(だめ、かな――)
時が止まったようなクラスの雰囲気で頭が真っ白になったとき、
「ええ名前やなあ! いい自己紹介やったなあ! 二人とも、ええぞ!」
ぱんぱんぱん、と拍手の音が響いた。
「健吾君」
蜜柑はやっとそこで息が吐けた。
健吾は大げさな拍手を続ける。
それに合わせて、その前の席の祇居も拍手を始めた。
やがて、最前列のベリーショートの少女と、その後ろに座っている長髪の少女。
「あ」
クラスのそこかしこから、ぱらぱらと拍手が起こる中、蜜柑は小走りに席に戻って行った。
隣の席の日向と目が合うと、瞳が潤んでいたようで、でもすぐに顔をそっぽを向いてしまって、ここで、拍手が大きくなった。
蜜柑と日向が照れていると、吉田が立ち上がり、とりわけ大きな拍手を三回叩いた。
「はい、はい…。なんだか知らんがよかったよかった。次の人ー、どうぞ」
「は、はい」
次の男子はそのまま席に立って自己紹介をしたが、その声は落ち着いていて、聞く側の拍手も自然なものになっていた。
もうちょっとゆるくやったって、いいじゃん?
空気自体を閉じ込めていた何かは、壊れていた。
そして健吾の番となると、中学のころから磨いてきたお笑いのワザで、クラスの雰囲気はさらに暖まった。蜜柑は自分の幼なじみが目立ちすぎているのを見て、次の人に迷惑じゃないかと自分を棚に上げて思ったが、それは気の回し過ぎであった。次の自己紹介者は前が誰であろうと持って行っただろうと、クラスの誰もが思った。
その生徒は持っていくもいかないも、元々考える必要が無い人間だった。
席を立った瞬間からあらゆる私語が収まり始め、黒板に名前を書きはじめたときには、完全な静寂が教室を支配していた。
彼が長い髪を翻して振り向いた瞬間に、それはため息へとかわる。
「水凪、祇居です」
そうだ、最初のは見間違いではなかった。
この、とんでもなく性別不明の同級生が、自分のクラスにいるのである。
「大狛犬おおこまいぬ一中から来ました。好きなものは、スポーツと自然です。前の学校では、主に武道系の部活に所属していましたが、高校では文化部に入ろうかと思っています」
スポーツと自然ですか、そうですか。
文武両道なんですね、わかります。
美声のアルトに耳をくすぐられ、クラスメートは言われた内容をするりと受け入れた。
それだけ少年の纏う雰囲気は清涼だった。
「これから三年間、どうぞ宜しくお願いします」
お辞儀までが、美しく清楚であった。
こちらこそ――。
クラスの半分が、自動的に頭を下げ返す。
祇居が静かに教卓から離れかけた時、差し迫った感情に押されて一人の女子が手を挙げた。
「あの…、水凪君って、男子、ですよね」
その瞬間クラスに、ただならぬ緊張が走った。
いいえと言えばこいつは嘘つきだ。
はいといえば、それは現実の破壊だ。
「はい」
祇居は穏やかな微笑を浮かべる。
瞬間、女子からは黄色いため息が、男子からは怨嗟と落胆の混じった唸り声が漏れ、誰かがくやしげに机を叩いた。
ただ一人日向だけが、
「フン」
と鼻を鳴らしそっぽを向いていた。
*
自己紹介が終わった後は、係決めとなった。
吉田は基本的に感情を表に出さない教師らしく、淡々と議事を進めていく。
「続いて、学級委員を決める。男女一人ずつだ。立候補は挙手を」
「はい!」
日向の手が、真っ直ぐ伸びた。もう完全に、その体のどこも震えていない。
「月待。…えー、理由は?」
「はい、わたし中学の後半は…留学もあったし、ちゃんと日本の学校に通えていなかったんです。だから、高校生活は、ちゃんとクラスのみんなと過ごしたいんです。だから、少しでもみんなの手伝いがしたいと思って」
しっかりと用意されてきた答えだった。
立ち上がった日向を見上げて、蜜柑はそっか、と思った。
この子は決めて来たんだ。
ひとりの時間で、いろんなことを考えて、決めて、そしてここに来たんだ。
なんだかくやしかった。
(でも、いやなくやしさじゃない。)
「オーケー。月待、座ってくれ」
この担任が今度は何をいうかとどこかで警戒していたクラスは、やや拍子抜けした。
日向もまた、不思議そうな顔のまま座る。
「女子、他に立候補は…ないな。月待に決定。よろしく」
「は、はい。よろしくおねがいします」
意外な展開だ、と日向は思った。
この担任、偏屈なだけで意外と良いヒトなのかしら? お姉みたいに。
そう思ってみると、なかなか男前に見えて来るから不思議である。
吉田は淡々とタブレットを捜査している。そのディスプレイは共有モードになっており、各自のタブレットの上にも表示されている。
〈クラス委員(女子)〉の役職名と並んだ空白セルに、「月待日向」の四文字が追加、保存された。
(まいっか! 結果オーライ!)
わが『TPG』に、ついに成功の判子が捺せる!
この〈幹事的なポジションに就く〉というワザは、『ともだちをつくろう!(MHK青年文庫)』なる啓発本から取って来たものであった。他にも『TPG』には何冊ものネタ本があり、そう、〈味方は意外と近くに居る〉というのも、そんなネタ本で見つけた一行だ。
作品名:月のあなた 上(2/5) 作家名:熾(おき)