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熾(おき)
熾(おき)
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月のあなた 上(2/5)

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ガール・ミーツ・ガール(2/2)



 担任は、教卓の上の段ボール箱を開ける。
 入っていたのはクラス分のタブレットPCと充電機器。担任は一列ずつに配りながら、淡々と使用上の注意を述べていく。
 宿題とテストは手書きで行われる。ネットに対しては独自のアクセス制限が掛けられている。自作プログラムの拡散には生徒会の許可が必要である…

「――さて」
 説明が終わると、担任は両手を教卓の上に置いたまま、扇形の教室全体を見渡した。
「先ほどの質問に答えよう。席は、とりあえずこれで行きます。後で替えるかも知れないし、替えないかもしれない」
 小さなざわめきと、不穏な空気がクラスに漂う。
「あの…他のクラスでも、そうなんですか」
 クラスの前から二列目左側にいた、柔らかいカールをかけた女子が、不安そうに微笑みながら聞いた。

「さあ? だれか、知っている奴はいるか?」
 担任がクラスに声を掛けると、クラスは沈黙する。
「…すまんな、わからない」
「わからないって…無責任じゃないですか」
 その前にいた、やや派手目の女子が呟く。
 二回目にドアの前に立っていた時、自分を追い越した二人だ、と蜜柑は思った。
 連携の自然さからすると、昔からの友人。しかもきらびやかな雰囲気から見ると、中学校でも「上の」カーストだったことが伺える。

 蜜柑は、どちらに味方するべきか分からなかった。
 担任のやり方にも違和感を持ったが、派手目の女子が言ったとき、わずかに、あれ、と思った。
 たぶんそれは、相手の思うつぼだ。
「無責任?」
 担任が愉快そうに口の端を歪めた事で、蜜柑の予想は的中する。
「高蔵寺こうぞうじ、黒板の字は読んでくれたな? 何と書いてある?」
 高蔵寺とよばれた派手目の女生徒は、一瞬くちを開けた。肉食系の外見にもかかわらず、罠籠が降ろされた瞬間の小動物の表情にそれは近かった。
「席は…自由」
「ありがとう。見ての通りこれは君たちが、自分で、やったことだ。その結果を、俺にはすまんがどうしようもできん。その理由がないからだ。すくなくとも今はな。変えるかもしれないし変えないかもしれない、と言ったのはそういうことだ。勿論、何か合理的な理由で変更を動議するものが居るなら、検討するが?」
「――」

「…あ、あの…学校は、皆の場所なので」
 高蔵寺が黙っていると、後のカール女子が、もじもじしつつ、何故かクラスの方を振り返りながら言い始めた。
「なので?」
「あのぉ…そう、みんながー、新しいともだちを作る場所なので! 名前順とかにして、輪が広がるようにするべきなんだと思います」
 戸惑う、鼻にかかるような幼い声音に、弱気な微笑み。
 蜜柑は、たどたどしい答え方と、淀み無く出てくる優等生的な回答のギャップに違和感を持った。
「なるほど? じゃあ三石みついし、なぜ、お前はそうしていない?」
「え…」

 初めて、三石の笑みが消える。
「今お前の隣に居る人間は三人中三人が、同じ中学の出身じゃないか? 偶然でもないな。おれが来た時にはお前たちはそこに座って居た」
「それは…先生の指示を聞こうと思って」
 三石の声には、すでに最初の鼻にかかるような甘さが無くなっていた。
 担任はいっそう愉快そうに微笑んだ。
「じゃあ何故、最初に質問したんだ」
「あの、それは…みんなが困ってると思って」
「それをみんなに言ったか?」
「……」
「とりあえず名前順にすわっていよう、などといってみたか? あるいは座り方について相談したか? だれかこの場で知り合った人間に?」

 蜜柑は日向を見た。
 日向も蜜柑を見ていた。

「ふむ。聞かずに、そう言う風に座っていたわけだな。そしてそれは、担任の指示通りだ。質問の意味が分からない」
「…それは、く…」
 空気が、と言いたかったのだろう。
 それが真実だとしても、理由としては幼稚だった。
「…ですよね! みんな好きな所に座ったんだから、それでいいと思います! ありです、先生!」
 二秒たらずで、三石は笑顔を取り戻した。
「それはよかった。さて、ほかに質問は…無いようだな」
 担任は質問タイムを切り上げた。
「調子のいいやつ」
 日向が呟いた。
 蜜柑の中の違和感は、いやな予感に変わっていた。

 次は蜜柑の番だった。
 クラスが自分に注目しているのがわかった。
 空気はかき混ぜられて、砂が舞い上がって濁った海のようになっていた。
 みんながそれを、もとの透明に戻すことを期待しているのがわかった。
 
 蜜柑は立てないまま、隣の真っ直ぐ前を見て動かない同級生を凝視した。
(つきまち、ひなたちゃん。)
 あなた、知らないの。
 人間の世界では不当な権力や不正が、横行してるんだよ。
 なんでかって、人に勇気がないからだよ。
 事なかれ主義だからだよ。
 他人はどうあれ自分たちさえよければそれでいいって、目の前で行われている不正から目を背けてるからだよ。
 それで、自分が被害者の側に回るときまでは、それがいったいどういう意味を持つのか理解できないの。
 でも気づいた時には、もうおそいの。
 いったん被害者に回ったら、誰も話なんて聞いてくれない。
 かつての自分と同じ、事なかれ主義の壁に弾かれて、どれだけ叫んでもなんにもどこにも届かない。被害者おもちゃは、口をふさがれ、袋をかぶされて声も出なくなるまで壊される。だれも助けてくれないんだよ。だれ一人――
(わかってるの?)

「次の人」
「は、はい」
 蜜柑は腰を浮かせた。
 立つと、足元が少しふらついた。
 呼吸を整えよう。
 だって自分は、なにもしないんだから。
 素通りする側に回るんだから。

 だがいったん下を向いて深呼吸をしようとした瞬間、それが視界に入った。
 上から見てやっとわかる、小さな震え。
 はしっこが元気よく跳ねた髪、膝の上で握られた小さな手、プリーツスカートの端、すべてが小さく震えている。
(怖かったんだ…)
 そう思った時、入学式に遅れて来た、くしゃくしゃの表情を思い出した。
 たった五分参加できただけで、子供の様に幸せそうだった笑顔を。
 そして、何度も何度も、教室と廊下の間にある見えない壁にぶつかって行こうとしていた背中を思い出した。
 この子は。
 辛かったんだ。
 怖かったんだ。
 前へ進んで行くことを選んだからだ。

「次のひと? どうぞ」
 勇気は。
「は、い」
 蜜柑は、席を離れた。

 体が浮く様だった。
 ちょうど、砂底からつま先を放して、海に身を委ねるように。
(わたし、何をしようとしているの。)
 指先に血が伝わっていないのが分かる。
 顔は真っ白になっているだろう。
 ただ、心臓だけが存在するように、熱く、耳に煩い位速く、脈打っている――

 俯きかけた日向は、すぐ隣から、何か甘い香りがしてくるのを感じた。
 その香りは、今そばを離れて、教壇に向かうセミロングの同級生の後ろ姿から。

 蜜柑はなぜ歩いているのか分からなかった。
 いま一番要らないものが注目の筈だった。
 だめだよ。
 弱味は見せないってきめたんだもん。
 だれにもよわさは見せないって。
 だから私は、ただ冷静に、ただ冷たく、何事も無かったように、普通の自己紹介をして、席に着く。