月のあなた 上(2/5)
ガール・ミーツ・ガール(1/2)
蜜柑は本棟四階、階段から出てすぐ左の『1―A』ドア前に立っていた。
本当は始業の二十分前には来ていたのだが、一度ドアの隙間から教室をのぞいて中に人がいるのを見るや、足が自然に反対方向に向いてしまった。
それから円状になっている廊下を散歩然と一回りして、再びこの地点に立っている。クラスの中では、朝日を浴びた同級生たちが言葉を交わしている。すでに意気投合して笑い声を上げているひとたちもいる。
その笑い声が蜜柑には――海の、足の届かない場所に立っているような気になっている蜜柑には――、自分の方へ押し寄せる波のように感じられるのだ。
心臓が早足を始める。
やめろ。
こんなことで不安になってどうする。
自分は今からこの部屋で、一年何の痛さも悲しみも受けつけないようにして、暮らして行かなくてはいけないのに。
つよくならなくてはいけないのに。
どうしてこんなところで立ちっぱなしなんだ。
部屋に入るんだ。
教室に入って、涼しい顔をして座っていろ。
本を開くんだ。そうすれば、だれがほかになにをしてようが関係ない。
そこで起こる事なんて言うのは、本の中で起こっている事に比べれば取るに足らない。お気に入りの小説は持って来た。鞄に入っている。ほら、この…この、鄭文堂オリジナルブックカバーに入っている。
大丈夫だ。息を深く吐いて。吸って。
さあいこう。
「でさー」
「やだよねー」
「!」
突然自分を追い越して教室に入った女生徒二人に、蜜柑は文字通り飛び上がって驚いた。
「……」
こめかみの奥で、脈音が鳴り始める。
ブラウスの背に、冷や汗が滲むのが分かった。
(だいじょうぶかな? 変な子だって思われなかったかな?)
教室の中に入った二人を見て、特に自分を気にしていなかった事を確認する。
(…だいじょうぶみたい。)
いかなきゃ。
これいじょうここに居たら変だと思われる。
(入るんだ。この部屋に。)
この部屋に!?
締められた瞬間牢獄になるかもしれない教室という空間に!?
“蜜柑。だいじょうぶだから。”
つよくならなくてはいけないのに。
どうしてこんなところに、立ちっぱなしなの、わたし?
いかなきゃ。
笑い声。
い。
蜜柑は扉の内側に鞄を掛けると、便座の上で顔を覆って声をおし殺して泣いた。
おかあさん、おかあさん。
ごめんなさい。
肩を揺すりながら、鞄をあけて、ティッシュを取り出す。
弾みに、父が渡してくれた『パンの大甘堂』のビニール袋が落ちた。
中身を思い出す。
あんこ、ぱんち。
「――」
鼻をかんで、深呼吸をした。
…もういちど、もういちどだ。
もういちどだけ。
蜜柑が三度目に『1―A』のドアの前に立とうとした時、だがさっきまでの自分の定位置には、違うショートの女の子が立っていた。
自分と同じ真新しい制服に身を包み、ぴんと背筋をただし、開け放しのドアの空けていない方の半分に身を隠すようにして、立っている。
「……?」
その、端っこが羽根のように跳ね上がった髪に、見覚えがあった。
女の子は動かない。
何人かの生徒が、その脇を通り過ぎると、身を縮めるようにして、硬直する。
そして、それらを見送っては、重心を前に傾けるのだが、すぐ肩を落として動くのを諦める。
そして立ち尽くす。
「あ…」
蜜柑は気づいた。
(あの子、入学式に遅刻の。)
「あの」
だが声を掛けた瞬間、その子は一歩を踏み出した。
その、真っ直ぐ伸びた、前へ進む背中。
「え?」
中には、まだ二十人ほどの生徒しかいなかった。
特に大きな声で笑っている様な生徒もおらず、多くは遠慮を交えた愛想笑いや、照れ笑いだった。
盛り上がっているような会話は、当然まだない。
(ええと、そうじゃなくて。)
私。入ってる。
教室のなかに入っている!
教室のなかは扇状で、二、三十の席は方形に並び、左右にタブレットのチャージラック。正面奥が窓側で、
「ねえ」
そして――
「あれなにかな?」
目の前の少女が、自分に話しかけていた。
「え? あれって」
蜜柑はやや声をかすれさせながらも、自然を装って返事が出来た。
二人は入口から四、五歩奥に入ったところに居る。
そして振り返った少女が顎で示す方向を、同じように振り返って見た。
カベ側には黒板があり、そしてやや右上がりの字で、こう書かれていた。
『席は自由』
それは、二重の驚きを蜜柑に与えた。
先ず〈黒板〉自体、小学校以来だった。
中学校からは、授業は全てタブレットとディスプレイで行われていた。高校も当然そうなのだと思っていた。小学校のあの無邪気だった世界から突然、黒板だけが現れたような印象さえあった。
だが、この学園が実験教育機関である以上、意図があって旧態を復活させたのかもしれない。それより問題は――
「自由? 自由って、自由?」
蜜柑が思ったままを言うと、少女も振り向き、大きく頷いた。
「こういうのって、普通出席番号順とかじゃないのかな…」
大きくて光を放つ瞳。ボーイッシュですっきりした顔の輪郭。意志の強そうな眉に、女の子らしい睫。
更に蜜柑は、その瞳の奥に燃えるような赤い色が有るのを見つけた。
(不思議な虹彩…)
思いつつも、蜜柑は会話を続ける。
「でも、出席番号なんてもらってないよ」
「だよねえ」
赤い瞳の少女は、また黒板に向き直る。
「うん、クラスを指定されただけ。クラスに云ったら、担任の指示に従えって」
「担任どこにいるの?」
どういうことだろう。
「まだホームルーム前だから、来ないんじゃない?」
「さっき、別のクラスで、もう大声を張り上げてる人がいたよ」
こんなふうに、初対面でぽんぽん話が進む子がいるなんて――。
でもわかる。
と日向は思った。
何となく雰囲気で。
この子には。
と蜜柑は思った。
何にもこわがらなくていいんだって――
ぴっちゃん。ころころころ…
何か高い、瑞々しい音が建物全体に響いた。
鉄琴にも似ているが、遥かに柔らかい音。
「水琴窟の、音だね」
蜜柑が言うと、
「…すいきんくつ? 難しい言葉を知ってるんだ」
日向は好意と好奇心をこめて、相手を見つめた。
蜜柑はどきりとして、一瞬顔を赤くする。
「わたし、つきまち――」
その時反対側のドアから、背の高く痩せた男が、ぬっ、と入って来た。
ジャケットを着てネクタイを締め、眼鏡をかけている二十代後半の男は担任と思しかったが、顔には照れも気負いもなく極めて無表情だった。
担任は白い段ボールを抱えており、さらに担任に続いて、二人の男子生徒が同じように段ボールを抱えて入って来る。
「ゲッ」
「あッ」
日向と蜜柑は同時に声を上げた。
「水凪祇居…!」
「健吾くん?」
云って、顔を見合わせる。
そして互いにの顔に「気まずい相手に会った」と書いてあるのを読み取った。
「水凪、熊崎、サンキュ。適当に席に着いてくれ」
二人の男子生徒は、担任がしたように、教卓の上に段ボールを置くと、クラスの方にやってくる。
作品名:月のあなた 上(2/5) 作家名:熾(おき)