アザーウェイズ
理斗は寝不足気味の眼を擦りながら登庁する。遅刻ぎりぎりの時間であった。
自転車を陸上自衛隊開発実験団が入る棟に停めると、早々に所属する機兵実験班の部署に顔を出す。
「おい洞見。やっちゃったな」
部屋に入るなり、斉田三尉がひそひそと真顔で話しかけてくる。
「え? なんすか?」
「あとで班長から話あるから」
斉田に浮かぬ顔を返す。理斗にはさっぱり思い当たる節がない。
朝礼が始まり、班長の梅崎一尉が起立すると、事務員を含めた一二名が班長を向いて起立し気をつけの姿勢をとる。おはようございます、と挨拶を交わすと梅崎一尉は全員を見渡した。最後に理斗と眼を合わせ、すっとそらしてから口を開いた。
「この時期、しかも内示もなく大変異例だが、人事異動が発令された」
斉田や他の隊員の視線を感じ取り、理斗は意味もわからずに緊張した。
「洞見理斗一曹。明後日二〇日付けで第二師団第三後方支援連隊の第四一普通科直接支援中隊へ異動となる。急だが至急準備し、二〇日午後には連隊本部に顔を出して着任許可をもらえ」
「え、善通寺ですか……?」
理斗は口を半分開いたまま突っ立っている。
「おい、わかったのか」
「は、はい!」
慌てて気をつけの姿勢をとる。
「だから言ったろう」
梅崎は呆れたように手を腰に当てると、諭すような表情になった。
「昨晩遅く、科長と隊長に呼び出されたんだ。お二人とも当然驚いておられたが、かなり強力な通達があったらしいぞ。言葉を濁して、はっきりとは言っておられなかったが、どうやら本多陸将が絡んでるらしい」
「はあ……つまり?」
「知らんのか? 移民組みとはいえ、もうここに配属されて半年になるんだから知っておいてもらいたいんだが……」
梅崎は廊下に繋がる扉や窓にさっと眼を走らせてから、声を低める。
「つまり、機兵2号機の件で貴様がさんざん文句言ってた四一DS(第四一普通科直接支援中隊)な、そこの武藤中隊長と本多陸将が親戚関係であることを知らんのか?」
「本当ですかっ?」
「声が大きい。やっぱり知らなかったんだな、まったく困った奴だ……武藤中隊長は冷静で理知的な判断能力だと聞いている。だから部下が侮辱されたとはいえ、私情で本多陸将をまで動かす真似する御方とも思えんが、大変な部下思いだという話だ。だからどこからともなく報復人事だという噂が出ているんだ」
「どっちなんですか。でもたしかにわたしも言い過ぎましたが……」
「ともかく、お前は世情に疎いの欠点だ。これでよくわかっただろう。常に敏感に周囲を感知しないと落とし穴に嵌まる。これがそのいい例だ。わかったらすぐに転任準備をしろ」
「あ、あの、赴任先での任務は……」
「任務自体は変わらんと聞いている。二号機を引き続き担当するということだ」
依然として機兵に関われるということで、青くなっていた理斗の顔に血色が戻った。そんな理斗の気を引き締めようと梅崎は厳しい顔を向けた。
「あそこはきな臭いぞ。心してかかれ」
「はっ! 洞見理斗三尉。本日をもって機兵実験班を離任し、明後日四一DS中隊に着任いたします」
理斗の声が響き渡った。
第二章
香川県善通寺駐屯地。
旧日本軍の建物が多く残るこの地に、陸上自衛隊第二師団第三後方支援連隊本部は置かれている。
古いが威厳漂う旧陸軍大隊本部の建物を窓外に眺めながら、本部で人事業務を担当する古城戸科長は熱いお茶を飲んでいた。
「科長。突然の人事異動って何事ですか」
部下の女性隊員の声が聞こえないのか、古城戸は依然と建物を眺めていた。かつて軍都だった善通寺に残る重厚な旧日本軍の各施設。そのなかで、いま古城戸の視線の先にある重要文化財に指定されている建物は、優雅な佇まいであり彼のお気に入りのひとつだった。特にこの時期は周りの木々が美しい新緑に色付き、風にゆらゆらと揺れる木漏れ陽が建物に写ってそれは美しい風景を作っている。彼はいまこの瞬間をただ楽しんでいたいのだった。
「忙しい時期にまた手続き増えて大変なんですよねっ」
キンと焦れた声の彼女に気付き、ようやく古城戸は振り向いた。
「今日の午後着任予定だっけ?」
「はい。でも何故整備隊に配属なんですか? 機兵って生身の兵士に代わるものとして開発されているんですよね? それなら前線で戦うべく、普通科に配属されていいんじゃないんですか?」
「第二師団隷下のどの普通科連隊にも即時に随伴できる体制を取っておきたいってことらしい。現在機兵自体が四一DSの装備品扱いになっているから当然だろう」
「そういえばそうですね」
と、古城戸は突然口元を緩ませて興味津々な顔になった。
「あと噂に聞いたんだが今回の人事、武藤中隊長が洞見一曹に部下を侮辱されたとかが理由らしいんだが、本当なんだろうか」
女性隊員はつっと天井を見上げて一瞬考える。
「まっ、するとあのときの武藤さんはそのことで怒っていたんですね。納得です」
「ん?」
「いえ、数日前、お友達と行った居酒屋で武藤さんをお見かけしまして。『くそっ、わたしの大切な部下を愚弄しおって許せん』って凄い剣幕で呑んでいらっしゃったんです。珍しくお乱れになって」
「ほう、貴重な光景だな。それはわたしも見たかった」
古城戸のイヤらしい笑みに、女性隊員はひと睨みした。
「まあ科長ったら――でも、最初は本当に彼女かと疑ったくらいでした。とっても怖かったですよ。虎になるっていうのはああいうことを言うんですね。もしかしたら自分の手元に置いて苛め抜く、あ、いや鍛え抜くつもりなんでしょうか」
「うーむ、意趣返しか……彼女のやることとは思えんが……」
「英明鋭敏で実に隊長のなかの隊長と言える方ですが、それ以上に部下思いですもの。よっぽど気に障られたのでしょう。きっと洞見一曹には過酷な訓練が待っているかもしれません」
「訓練ならいいが……今週中に中央即応連隊がこの駐屯地にやってくるではないか、表向きには演習という理由で――実際は近近の中国軍上陸をかなり現実視しているらしい。その随伴支援も当然あるだろう」
「えっ! つまり、実戦で試される可能性があるってことですか? やっぱり最近この辺で中国の動きが活発だからでしょうか」
「そうだな、領海侵犯が常態化しつつある。司令部に入ってくる情報によると、瀬戸内海上のどの島に上陸してもおかしくない事態だそうだ」
「本当にそんなことになるんでしょうか。とても信じられません」
「君が子供のときだけど、一〇年以上前のロシアがクリミアを編入したときの手段を覚えているかい?」
古城戸は白髪混じりの頭に手櫛を入れて、記憶をたどるように一旦天井を見上げる。