アザーウェイズ
「すばらしい肉体だな。ちょっと痛い目にあいたい気がしてきた」
そういう斉田はややスマートではあるものの、血統書つきのドーベルマンかシェパードのように素晴らしくバランスのよい肉体をしている。
斉田が毎日目標を持ってトレーニングを積み重ねているのを、理斗は知っていた。
肉体だけでなく精神までも自分は中途半端なのではないか。
突然心に浮かんできた懐疑に、理斗は呆然とした。
「本当に僕はこの国を守れるのだろうか」
そして、そんな言葉が知らず知らずのうちに洩れ出ていた。
午後も引き続き原因の切り分け作業をしていた理斗。ふと首をひねりながら立ち上がり、梅崎一尉のデスクにつかつかと歩み寄った。
「班長。やっぱりこれ善通寺の整備が悪いんじゃないでしょうか。送信データの解析はざっと見たところ問題ないですし、衛星の中継にはまず問題が発生しようがないと思います。あとはもう善通寺側にしか考えられないと思いますが」
その言葉を聞いて、温厚な梅崎にしては珍しく眉間に皺を寄せて理斗を見上げる。
「善通寺側の報告が未了なのだから、まだ結論を出すのは早計だろう」
疑問符をありありと顔に浮かべている。
「洞見一曹。最近、仕事内容が雑になってきていないか。この部隊に配属された当初はもっと丁寧だったぞ。わたしは君の精確な観察力を買って二号機を任せたんだが……今までの君だったら推量で整備が悪いとは言わないだろう」
梅崎の指摘に、理斗はふっと顔を曇らせた。
言われてみれば、おかしい気がする。
「それに女の子をナンパするような人間でもなかっただろ。見た感じ拙速にことを運んでいるように見える。ゴールデンウィークに出かける予定があって休日出勤したくないとかか?」
理斗は混乱した。確かに自分は、そんなことをしたことがなかった。
おかしい、何かがおかしい、何故だ。
理斗は唇をかたく閉じて考えていた。
「どうかしたか?」
「いえ、なんでもありません」
理斗の様子に、梅崎は眉間の皺を解き、柔らかい声音で話しかける。
「機兵に関わっているという気負いか?」
「それは……あるかもしれません」
上司の気遣いを有り難く思いつつ理斗は返答していた。そして心中ではもうひとつの理由が朧げながら見え始めていたが、理斗はそれを振り切るように、
「作業に戻ります」
と、軽くお辞儀をし、すぐに席に着いて作業を再開した。
†
三日後。
日が暮れたなか、自転車に乗って駐屯地から出る理斗の姿が街灯に浮かび上がる。
しばらく自転車をこぎ、いつものコンビニに寄って弁当を調達してから近くのアパートの駐輪場に停める。理斗は北熊本駐屯地勤務となってから、駐屯地にほど近いこのアパートを借りていた。
制服を脱いでシャワーを浴び、さっぱりとした顔で弁当を暖めてテーブルの上に置く。
厳しい巡検のあった隊舎生活していたころと異なり、今の理斗の部屋は決して整理整頓されているとは言えない。今置いた弁当のわきにも、数日分のレシートや小銭が散らばり、また部屋の片隅には乾いた洗濯物が畳まれもせずにうず高く積まれている。
理斗は箸を取ると、ひとりでに呟く。
「班長に雑になったと言われるのも仕方ないな、こんな体たらくじゃ」
黙々と箸を動かし続け、あと二口で食べ終えるというところでスマートフォンが震える。
発信者の表示を確認すると、急いで手に取った。
「もしもし……ああ大丈夫……」
スマートフォンに耳を押し付け、長い沈黙が続いたあとに、理斗は静かに箸を置いた。
「ああ、わかった。担当医がそう勧めてて親父もお母さんもそうするつもりなんだろ。俺が何言おうがさ……うん、ゴールデンウィークに何とか時間作って帰る……じゃね」
スマートフォンを置く手が少し震えている。
「とうとう……なのか」
よろけるように立ち上がるとベッドに身を投げ出して仰向けになる。歯軋りのような呻きのあと、天井の照明を遮るように両手を額の上に乗せ、理斗はしばらくそのままの姿勢で身動きひとつしなかった。
先日、梅崎班長とした会話が思い出された。
そう、確かに自分は最近おかしかった。そして、それは母の死が迫っていることを自分が受け入れられなかったからに違いない。
残された時間は少なかった。
理斗はこの数ヶ月間無意識に避けていたこの事実を、最早正面から受け止めなければいけないことを自覚していた。
「しかし親父もお母さんも相変わらずだ……相変わらず権威に弱い」
スマートフォンが再び震えた。
理斗はメールに眼を通すやいなや起き上がり、机の前に座ってパソコンをつける。
マウスのクリック音がいくつか聞こえたあとに、スピーカーから女性の声が聞こえてきた。
『嬉しい来てくれて』
穏やかでやわらかく、耳にしっとりと馴染むよう声質が心地よく理斗の耳朶を刺激する。言葉そのままに、気持ちが素直に表れ出た弾んだ声音だった。
『でも、ちょっと元気ない顔してる』
理斗はモニターの端の小さなウィンドウを一瞥する。少し陰気だろうか。理斗はウェブカメラに映っている自分の表情を変えようと表情筋を動かしたが、ぎこちなく上がった口角と引き攣った頬になっているに過ぎなかった。
「メールありがとう。でもごめん、今日はちょっと疲れていて……」
紗奈。
少し丸顔の顔が映っているウィンドウのタイトルに表示されているのは、その女性の名だった。そして顔立ちは、スピーカーから響く声の印象そのままに上品だった。
『ごめんなさい。そうですよね、お仕事で疲れていますよね。ごめんなさい……』
つい先程までの笑顔が、ふっと曇る。
「あ、でもメールに話があるって。少しなら話聞くよ。大丈夫」
『ううん、また今度にするね……あ、そうだ、今月の三〇日、何の日か知ってる?」
「ん?」
思いがけない質問。
『えっとね、わたしたちがチャットで知り合ってから二ヶ月記念になるんだよう。早いね』
「二ヶ月? 二ヶ月目も記念日になるの?」
『もうっ! いじわるぅー』
画面のなかの紗奈が小さく頬を膨らませる。
理斗は紗奈の言う記念日を不思議に思った。
『二ヶ月間いろいろお話しすると、お互いのことが沢山わかって来て楽しいよね。ねっ、理斗さん。わたしたち気が合いそうだしそろそろ逢ってもいいころなのかな……』
「うん、逢いたいな紗奈ちゃんに」
理斗は気持ちを素直に伝える。
『そうだっ! 記念にお互いの本名と住所教え合おうか? って、ああっ! 言ってないのわたしだけだったね。でも下の名前は本名なんだよ、あはは〜』
画面の向こうで頭に手をやって照れている。
「うん、教えてくれれば嬉し――」
理斗は紗奈の仕草にはっとして押し黙った。それを見た紗奈が慌てる。
『あ、いけない、お疲れだったのに、わたしったら……じゃまた時間あるときに連絡します。今度はいっぱいお話しましょうね』
「うん」
画面がオフラインを告げウィンドウが黒くなったところで、理斗は一人呟いた。
「やっぱり似てるな……」
ベッドに体を投げ出し、腕で眼を覆う理斗。
「お母さんに」
その姿は、いつまでも動くことがなかった。
†
翌日は四月にしては寒い朝であった。