アザーウェイズ
本当は自分は何かしてあげられるのか、ただ彼女の身に起こった出来事の真実を知りたいがために、こんな発言をしているのではないか、果たして自分に許される質問なのか、言い終わってから理斗の頭にそんな想いがよぎる。
『実は……』
顔を上げると、紗奈はゆっくりと話し始めた。
『わたしのお客さんで中国人がいて……その人はお店の常連さんだったんだけど、前からアフター、つまり勤務後に誘われていたんだけどずっと断っていたの……』
紗奈は想い出すのも辛そうに一語一語やっとという感じである。理斗はよほどもういいと言おうかと思ったが、やはり最後まで聞かずにはいられない気持ちであった。
『その人軍人さんなんだけど、この前、しばらくわたしに会いに来れなくなるからどうしても今日アフターしてくれって。わたしは嫌だったんだけど……』
躊躇いつつも紗奈は続ける。
『呑みにいくだけだし、どうしてもって言うから行ったら……わたし……わたしを……うっ……うぁ……』
紗奈が崩れるように机に突っ伏した。
さっきから必死にこらえていたのだろうが、もう限界だったのだ。
「もういいよ。ごめん話させて……訴えるとかは? 諦めないで頑張ろう」
『無理よ。軍人だもの。ここの警察は中国の軍人には何もできない……』
「……くそっ!」
さっきまで言おうと思っていた言葉、「紗奈ちゃんのために何でもしたいんだ! 少しでも力になりたいんだ」という言葉を理斗は飲み込んだ。無責任な言葉。そうとしか思えなかったから。
「そいつの名前は?」
『董虎(とうこ)っていうの。こういう字』
紗奈がキーボードを叩いて画面に表示させる。
『どうするの?』
「ネット上でいろいろ調べてみようと思って。プライベートから追い込めるかも――」
途中まで言っておいて、理斗は口をつぐんだ。
しまったとおもった。この通信記録が頭に浮かんだ。どのように中国側に伝わっているか。そして、もしかしたら彼女に被害が出るかもしれない。
「いや、ごめん」
『……やっぱり駄目ですよね……わたしたち会わなくてよかったかも。会っていたらもっと苦しかったもの。さようなら――」
画面が真っ黒になっていた。そして、理斗にさびしくログオフの文字を見せ付けるだけだった。
「紗奈……」
薄暗い部屋のなかで、理斗は静寂に吸い込まれていく自分の言葉を聞いた。
第四章
機兵の試験および訓練は順調であり、ようやく日曜に休暇が取れた。
理斗は丸亀駅のホームに降り立っていた。ひとりだった。
丸亀の街を歩き始めたところで、理斗は立ち止まる。
「しまった、日本庭園……また今度にするか」
一度振り返ったものの、再び歩き始める。
「今日一日は丸亀と、時間があったら坂出を観光しよう」
善通寺から電車で一〇分程度だが、第二師団に来て以来忙しくてまったく四国を観光できなかった理斗は、朝に突然思い立って丸亀を訪れていた。
しばらくして見えてきたのは丸亀城の天守。
前方の高い石垣の上にそびえている。
善通寺に来てから、まず行ってみたいと思っていたのはこの城。紗奈が来たら絶対連れて行こうと思っていた城だった。
理斗はかつてそう考えていた自分を振り切るように歩速を早め、大手門へと急いだ。
石垣の見事さに眼を奪われながら天守を目指して上り続ける。途中で何人もの観光客にすれ違う。なかには若いカップルもいて理斗は彼らから自然と顔を背けては、自分に自己嫌悪を感じていた。
天守からの眺めを堪能すると、石垣の作りや各所をつぶさに見ながら城をひとまわりする。
すれ違う観光客の会話が聞き取れない。
「結構中国人が多いな。人気あるのかな」
存分に楽しんでいる様子の彼らは中国語で弾むような会話している。理斗は意味は解らないながらも、彼らの楽しい雰囲気だけははっきりと感じ取っていた。
瀬戸大橋を渡ってすぐのこの丸亀は、西日本に住む中国人が訪れる日本の最初の観光地であった。しかし、熊本やその周辺では中国人は滅多に見かけない。見かけるのは台湾人であり、九州北部の彼らは日本人との混血が進み、殆ど日本人と見分けがつかない。典型的な中国人を見るのは理斗には珍しかった。
城をあとにし、理斗は駅近くの商店街を廻ってみた。もうお昼時で腹が減っていたのだ。
何を喰おうか、どの店がいいか、と歩き回っていると、中国料理店が眼につく。それに商店街を歩く人も中国人が目立っている。
彼らは地元の日本人と世間話するときはぎこちない日本語を喋るが、中国人同士のときは早口の中国語でまくし立てていた。どうやら身なりや仕草から判断するに、彼らは観光客ではなく、ここに住む地元の人間であり、同じ中国人の観光客相手に商売しているらしい。
理斗はうどん屋で天ぷらうどんを啜り、窓外の彼らの様子をぼんやりと眺めていた。
「坂出に行く時間はありそうだな――すみませんお勘定」
腕時計を見ながら理斗は席を立った。
隣の坂出ではとくに観光するものを決めていなかった。スマートフォンで調べると、瀬戸中央自動車道に沿って大きな公園が三つほどある。北の瀬戸大橋記念公園から順番に見ていくことにした。
瀬戸大橋記念公園は休日のせいか、家族連れが多い。しかし、よく見れば、中国人の観光客と思われるなかに観光客とは思われない中国人の家族連れが少なからずいる。日本人の数の方が多いとはいえ、丸亀よりも中国人の数は相当なものだった。
すぐ近くの番の州臨海工業団地に勤めている人たちなのだろう、と理斗は推測した。
若夫婦がバドミントンを、小さな子供たちは追いかけっこを楽しんでいる。みな顔を幸せな笑みでいっぱいにして、それぞれに休日を楽しんでいる。
「華僑……なのか」
瀬戸大橋という友好の橋を通じて、華僑の生活が確かにここ日本で成り立っている。
これだけ仲良さそうな日中の国民が戦争状態になるなど信じられない。
「お前中国人か? キャッチボールの邪魔すんな! 生意気なんだよ!」
小学生くらいの日本人の男の子が、中国人の男の子と喧嘩になっている。
「こら、翔! そんなところで始めるのが悪いんでしょ。ちゃんとその子に謝って、もっと広いところでやりなさい」
しかし、すぐに日本人の男の子の母親が仲裁に入っていた。
そう言われた男の子は素直に母親の言うことを聞いた。
「はーい……ごめんなさい」
相手の男の子に向いてぺこりと頭を下げると、すぐに走っていった。
(個人間では、争いを避けるように本能が働く筈なんだ。でも先入観があるとあの男の子のように喧嘩っ早くなって……)
理斗はここ数日自分の頭を悩ます原因に、なんとか整理をつけたいのだった。
(あとは何だ? プライドか? プライドがあると、限られた財産を相手に譲ることができないばかりか、相手が自分の力で得た財産をも許せなくて奪い取りたくなるのか? そうなのか? 果たしてこれは解決できうるものなのか? すべての人間が謙虚になって向き合えば、なんてことはない? くそっわかるかこんなの!)
理斗は西日本へと伸びる瀬戸大橋を前に頭を振った。