アザーウェイズ
見れば、武藤は二杯目のジョッキを手にしていた。
「すみません、ありがとうございます」
理斗は残りを有り難く一気に呑み干した。母の死も呑んで忘れたかったこともあった。
さらに酔いがまわる。
理斗は酔った眼で周囲を見渡した。全員が私服に着替えていたが、武藤ともう一人の鶴見というワックは、やはり女性らしく男性たちよりも華やかな色と可愛らしい洋服で目立っていた。
ふと、理斗は武藤の胸に眼が留まった。
「酔ったか? 洞見」
その武藤は理斗の心を見透かしたような、とくに恥ずかしげもなく平然とした表情だった。
「いえ、すみません――あの、迷彩着てるときは全然違うもので」
「普段は、スポーツブラで締めているからな。こういうときくらいは胸にもリラックスさせてあげたいものだよ」
「さすが! われらが隊長! オンとオフのメリハリが利いてますよね。ついでにここのメリハリもあります!」
鶴見が武藤の絞られたウェストから豊かな胸をなで上げようとすると、武藤は軽く手で払う。
「うわあああ〜! わたしが胸無いから隊長ので癒されようと思ったのにいけずです。が〜隊長! もっと呑んでください! でないと隊長に悪戯できないんですから」
そんな悪ふざけしている二人を見て、さすがに自衛隊だけあると理斗は思う。
男が下ネタや自分の身体的欠点を持ちネタとして披露することにより隊内の結束が高まるのと同じようなものなのか、女性隊員であろうと男に負けずそれらをネタにしていた。
さらにワックの場合は、女性特有の恥じらいもなくさないと、軍隊として機能を最大限発揮できないのだろうか。
理斗はそんな想像に浸りながら、彼女らを見ていた。
「一曹! 眼っ! 眼がっ!」
鶴見が理斗に注意する。
言われて理斗は、また自分の視線の先が武藤の胸にあることに気付いた。
「あっ、すみませんっ!」
母が生きているあいだは、こんなに女性の体に執着していた自分はいなかった。
(もう母の体が骨になってしまったからなのか……?)
今までになく女性の体を愛しく思っていることに、自分自身驚いていた。
(お母さんの胸も大きかったが、隊長はそれよりも大きいな)
廻るような酩酊感のなかで、理斗は必死に眼を逸らそうと努めながらそんなことを考えていた。
座の頃合を見計らっていた武藤が立ち上がった。
「さあ明日も訓練があるから、これで撤収だ。忘れ物はないか全員確認しろ」
「はいっ!」
全員の返事で隊員たちは、帰り準備を始めた。早い時間にお開きとなったが誰も文句は言わずに武藤の命令に従っている。
居酒屋からの帰り道に、武藤は理斗に話しかけた。
「スマンな、これを歓迎会代わりにしてくれ。忙しくて歓迎会もろくにやってられないものだから……こんな時勢だからと言い訳するつもりもないんだが」
「いえ、全然大丈夫です。今日も楽しかったです」
理斗を含めた隊員たちが繁華街の端の静かな通りに入った。ある建物の前で、理斗はその屋敷構えに眼を惹かれた。
この善通寺には自衛隊営舎の外にも日本で最古と言われ文化財でもある善通寺駅舎や陸軍施設をそのまま使っている大学校舎を始め、町並みのところどころに古い建物が残っている。
善通寺に来て間もない理斗は、そんなひとつかと思い、二階建ての古い木造の屋根瓦を見上げた。
「契り宿さ」
武藤がぼそっと言った。
「ち、契り……?」
立ち止まった武藤を振り返ると、彼女の顔からは酔いは消え、いつものまじめな顔をしていた。
「戦時中は、出征することが決まったとき、ここで急いで祝言を挙げた若い夫婦や恋人たちが、出征する前夜に泊まるのに使った宿なのさ。男女の想いが詰まっている、そんな大切な場所だな」
「……そうだったんですか」
理斗は何故か気恥ずかしくて、どう言葉を返せばいいかわからなかった。
「それが戦後には進駐軍の売春宿に使われてね……洞見。どう思う?」
「どう思うって……」
「戦争に負ければ、自分達の大切なもの、財産、自由、思い出から何から何まですべて奪われるってことさ」
理斗は武藤の真剣な表情に、ただ黙って聞くしかない。
「だから、必ず守らなければならないのだ。この国を……自分達の手で――」
熱くなり始めた自分を抑えるように武藤はひとつ深く息を吐いた。
「――いまは普通の民宿さ。わたしの親戚が経営していてね。君の家族を国から呼んだときとか利用してくれたまへ」
そう言って笑顔を見せると、武藤は歩き始めた。
(契りか……僕にもそんな人が現れるのだろうか。もしかしたら……紗奈?)
まだ酔いの残る頭でそんなことを考えていると、無性に結婚という単語が頭にちらついてくるのだった。
そして、母の死後それほど時間が経過したわけでもないのに、もうそんなことを考えている自分に、また驚いていた。
†
二日後、理斗は時間通りに勤務を終え、アパートで食事をしていた。
食事の終わりごろに流れたニュースでは、男性アナウンサーが深刻な顔をしていた。
『――にて、中国の孔主席が演説を行いました。その演説で注目された言葉が「歴史の正常化」です。果たしてどのような意図が込められているのでしょうか――』
理斗がテレビのスイッチを切ろうとリモコンに手を伸ばしたとき、電話が着信を告げた。父であった。
「もしもし」
『理斗か』
「俺の携帯なんだからそうに決まってる」
『ははは、そうだな』
「なに?」
『実は、今日納骨してきた。四十九日をする時間がないから、もう納骨してしまっていいだろうと思ってな。というか、実は家の中に置いておくと、お母さんがなんとなく落ち着きどころがなくてふらふらしてそうでな。はやく定まったところに安住させたほうが安心するんじゃないかと思ったんだ』
理斗の父はもう一人であの一軒家に住んでいることを、理斗は思った。前は三人、自分が移民してからは二人で住んでいたあの家に、父はいまや一人で住んでいる。
そのことを思うと、母ではなく、父自身が不安な気持ちなのだろうと思った。
「おやじ……こっちに来て住まないか?」
そんな言葉がひとりでに出ていた。少しだけ沈黙があって父の息遣いが聴こえてきた。
『……ああ、父さんなら一人でも大丈夫だ。こっちで充分やっていける、仕事もあるしな。それより、いまそっちは大変らしいじゃないか。お前こそそっちに居て大丈夫なのか? こっちは全然なんの心配もないぞ』
「ああ、大丈夫だよ、多分ね――」
理斗はテレビを消すと、その晩は珍しく父と長電話をしたのだった。
†
翌朝の朝礼では、武藤が一段と厳しい顔をしていた。
「昨日の孔主席の演説は全員聞いたか?」
約百名の隊員たちを前にして声を張り上げている。理斗が挙手をして訊ねる隙もなく武藤は言葉を続けた。