アザーウェイズ
『わたしの祖父は共産主義に憧れて戦後すぐにここに引っ越して西日本の建国に全精力を傾けたの。建国に貢献した一人として党から表彰されるほどに。第二次世界大戦後は、共産主義に夢を見ていた人が大勢居て、そういう人たちが皆この中国が統治していた地域に集まったのよ。その人たちが中国、つまり中華人民共和国に倣って磐石な国家構造を築いたんですもの。中国軍の駐留もその支配構造の一つよ。中国が望んでいるだけじゃない、西日本が進んで駐留させているのよ、民主化が進まないようにと。だから、民主化なんて遠い遠い夢のよう……』
理斗はふと思った。以前調べ、斉田にも教えてもらった北海道共和国はただ単にソ連の影響下で社会主義になったにすぎず、独立してからは民主化が著しい。そういう点では、バルト三国や東欧圏の国々と同じだった。
だが、西日本人民共和国はどうだろうか。北海道とは国のあり方や国民の雰囲気まで違っているように思える。その理由は、今彼女が言ったことにあるのかもしれない。そう、西日本は共産主義を望み、理想とした人たちが集まって作った国なのだ。土地を離れられなかった民衆は共産主義には拘らなかったとしても、国を率先して作った人々は、北海道とは異なり、戦前から日本を共産主義に作り変えようとしていた人々がこのときとばかり集まって作った国なのだと。そしてそれが後に引けずに無理矢理体制を維持しているように理斗には見える。
ふと画面を見れば、紗奈の表情は哀しそうだった。なんとか彼女に希望を持たせてあげたいと思わずにはいられない表情で……。
「そんな悲しまないで……そうだ! 僕みたいに移民すればいいんだよ。この国に!」
しかし、紗奈の表情は変わらない。
『……駄目よ』
「どうして?」
『この国から日本に移住するには、三親等以内に共栄党員が居ては駄目なのよ』
「そうなのか?」
理斗は知らなかった。東日本からの移民条件にそんなものはない。特に犯罪者や人権侵害または反国家の思想運動歴、働く意志や能力のないものを除き移民が可能だった。
『親戚に共栄党員が居る場合は、特別優秀な学歴や職歴がないと許可されないの。わたしなんて絶対無理。高校卒業して飲食店で働いているだけだもの』
「他に手段は?」
『駄目。わたしなんか何も取り柄がなくて……』
さらに哀しそうに顔になり、理斗は同情の言葉を探そうとした。
『あっ! でも一つだけあったわ。結婚。日本の人と結婚すれば移住が許されるの』
突然、紗奈がぱっと明るくなっていた。椅子の上で飛び跳ねそうなほど、体を揺らしている。
「そっか! 結婚か――」
なぜ自分も気がつかなかったのか、理斗も不思議に思うほどの盲点だった。
だがそれよりも、画面の彼女が明るくなったことが嬉しい。
と、思っているあいだに、再び彼女から笑みが消える。
『ね、理斗さん。わたし早くあなたに会いたくなってきた。もう会ってもいいわよね? お金溜まりそうだから来週そちらに行けるかもしれない。ね、どう?』
切ない表情で訴えかける彼女の表情。前回よりも積極的になった彼女に言動に理斗は素直に嬉しかった。
「うん、いいよ。ゴールデンウィーク中だったら僕も休み取れると思う」
『ゴールデンウィーク?』
「あ、そっか。こっちでは来週祝日が沢山あって、そう呼ばれてるんだ。自衛官も勿論休みだからね、大丈夫」
『嬉しいっ! 楽しみにしてますね』
心から嬉しそうな彼女の表情に、理斗は満足げにログオフした。
理斗は女に覆いかぶさっていた。そして強く抱き締めていた。
夏の夕陽がかすかに射し込む薄暗い部屋に、理斗も女も下着姿であった。
女が誰なのか、それははっきりとわからない。
抱き締めている感触は、未知のもの。
紗奈? 画面に映る彼女しか知らないが、そんな気がする。
体を起こし、正面から顔を見ればわかるのだろうが、強く抱き締めている感触がいとおしくてこの女の肌から離れる気になれない。
『ああ……』
女が吐息をもらした。
理斗は、吐息の可愛さに、さらに強く抱き締めた。
(俺は何をしているんだろう。もう彼女との逢瀬を果たしている……?)
女の頬がすぐ眼の前にある。
理斗は頬ずりし、女のやわらかな肌の感触を堪能した。
少し視線を下にずらした。腹のあたりは、暗くてよく見えない。
(どうなっているんだろう?)
理斗はいまの自分が何をしているのか、自分でもよくわからないのだった。
『キキキ……カナカナ』
妙な音が聞こえた。ヒグラシ?
(うるさいな。いま誰にも邪魔されたくないんだ)
ふと、理斗は昔ヒグラシを母に見せたときのことを思い出した。
「可哀想だから離してあげなさい。長く生きられないのよ」
たしか、そんなことを言っていた。
(いや、そんなことはどうでもいい)
理斗は女の感触を再び悦しみ始める。もう離すまいと、強く、より強く抱き締める。
しかし、妙な気がした。
痩せた?
突然女が痩せてしまったような気がした。
『理斗! こんな女と何してるの!』
母の声がした。
理斗が体を起こして女の顔を見ると、それは母であった。
『みま……こ……な』
母が口を開いたが、なんと言っているのかよくわからない。
そんな、母の顔が悲しみに崩れそうになって……。
理斗は眼を覚ました。
「うあっ!」
ベッドから起き上がり、あたりを見渡す。
続いて自分の下半身を見れば、下着姿ではなくきちんとパジャマを穿いている。
「夢かよ……」
目覚まし時計を見れば、まだ起きるには早い。
「なんでこんなときに……?」
再び横になり枕の位置を直そうとしたときに、枕の近くに置いてあったスマートフォンの着信ランプが点滅していることに気付いた。
「さっきのヒグラシの鳴き声はスマホの音だったのか」
スマートフォンを手に取って見ると実家のナンバーだった。
一瞬の間に何かが理斗を貫いた。返信する手が少し震えている。
「あ、おやじか。電話、なに?」
言葉がうまく出ない。
『理斗か……さっき、お母さんがなくなった……死んだ……』
父親の声は、うわずっていた。
「そっか、わかった」
わざと低い声で答えた。動揺していると父親に思われたくなかった。
「葬式は?」
『それは日が決まったら連絡する。いますぐに病院からお母さんを出さなくちゃいけないから』
「もう!?」
霊安室でしばらく置いてもらえると思っていた理斗は、死後すぐに動かさなければいけないことに困惑してそう尋ねていた。
『ああ、病院は死亡したらすぐでなくちゃいけないんだ』
「朝まででも駄目なの? でもなんでそんなすぐに」
親父だって疲れているだろうに、という気持ちもあった。
『病院というのは病人はいてもいいが、死んでいる人が居ていい場所じゃないんだよ。お前のお爺ちゃんのときもそうだったが、病院はすぐに出て行かなければならないんだ。正直慌しい』
「そうなのか……わかった。じゃ、切る」
なんとも言えぬ気持ちがこみ上げてくる。
「お母さん……」
咽が絞られるような声しか出ない。
ふと、夢の中の母の最後の聞き取れなかった言葉を思い出した。
『見舞いにも来ないで』