アザーウェイズ
受付を済ませ、待合室に入ったときだった。
「あ、武藤中隊長……」
武藤かず沙が待合室のソファーに座って文庫本を手にし、真面目な顔つきで眼を走らせている。
「ん?――ああ、洞見か」
理斗の声に気付き、武藤が顔を上げた。
理斗は人差し指で自分の口を指し示し、
「虫歯ですか?」
と、言ってすぐに後悔していた。武藤が睨みつけてきたからであった。
「わたしは普段から歯の手入れを怠らないから虫歯にも歯槽膿漏にもならん。機械の整備と同じでいつも完璧だ」
「あ、えと、それでは隊長は何用で……?」
「マウスピースを作りにだ。訓練や演習用に持っているが、消耗品でもあるし、この前力を入れて噛み締めたときに破損したので作りにきたのだ」
「そうですか……」
さすがだと感心していると、理斗を見上げて口元を見ている。
「貴様も作ったほうがいいぞ。そして面頬も用意したほうがいいだろう。あればそのように歯を失うこともなかっただろうに」
「面頬?」
わからんという表情の理斗に、武藤が驚いた顔をする。
「日本人の癖に面頬も知らんのか? ああ、東日本では既に武士の魂は死んでいたのか……」
何やら悔しいのか、残念なのか、くっと肩を落としている。
「甲冑の写真くらいは見たことあるだろう。眼の下あたりから顎までを覆うこういうマスクみたいな奴だ。もっともわたしのはもっと現代風な作りになっているが」
頬と口元を手で多う仕草をする。
「そんなの支給されていませんが」
「自分で買うのだ。アメリカや東日本ではどうかしらんが、ここでは何もかも国が用意してくれると思うな。国を守る全体的なことから自分の身を守る細かい方策まで、一人一人が工夫して考えねばこの国は守っていけない。小さい国だから一人一人の役割が重要なのだ。貴様も自分の身を守るにはどうすればいいか、自分で常に考えろ。真の独立と自由は他人に頼りきりでは手に入らない」
「は、はい……」
理斗は自分の東日本での生活を省みた。確かに何かに頼る一方で、そこに自分の成長が止まったような物足りなさを感じていたのかもしれないと。
だがそれは自分だけの問題だったろうか。社会全体にそんな雰囲気、生ぬるい理想論を言って現実を無視した空気があったのではないだろうか。
それが嫌でこの国に来たのだ。そう、独立と自由は自分自身の力で維持してこそ、存分に享受し、楽しめる。それが一人の人間としての成長した究極の姿なのだ。
理斗は眼の前の武藤中隊長の凛々しさを見て、そう実感する。
「それでどうだった? 前線は?」
「この通りです。酷い目にあっただけです」
仮の前歯を指差して苦笑った理斗に、武藤は張り詰めた眼差しを返す。
「それは違うぞ。酷い目にあっただけじゃない。国を守る前線がどういうものか多少なりとも理解できたじゃないか。そこを守り抜いてこそ、我々の自由と独立が保てる。大局的に見れば、そこは国の自由と独立の境界なのだ。その境界の先へ行けば、言論をはじめとする様々な自由が存在しない世界だ。一方この境界は個人の人権と生命が脅かされる場でもある。我々はこの側面を知らないで自由と独立を叫べると思うか?」
理斗は思わぬ難しい話をされて面食らっている。
「それは貴様が衛星通信で機兵を操縦しているだけで、果たして知ることができた世界だろうか――」
診察室のほうから女性が現れて声をかける。
「武藤さん」
「すまん、呼ばれたようだ」
彼女は行ってしまっていた。ひとり待合室に残された理斗は、自分の知らなかった世界を知ることの恐怖或いは戸惑いと、それらへの心構えの必要性を感じて、頭の中が混沌としてくるのを感じるだけだった。
治療が終わると、理斗は自衛隊病院からの帰り道を急いだ。
今日でやっと前歯の治療が終わり、ほぼ元通り綺麗な歯に戻っていた。それを一番に見せたい人が居る。それはチャットの彼女、紗奈だ。彼女とやっと久しぶりに会える。
それまで二回お誘いのメールが来ていたのだが、歯が治っていない状態で顔を見せるのが恥ずかしく、また顔に痣も残っていて戦場で怪我したなどと心配させたくなかったので、仕事の忙しさを理由に断っていたのだ。
理斗は家に着くなり、鏡に向かい、髪型、眉毛、肌などの身だしなみを整えてからパソコンに向かった。
まずはメールを出す。特に決めたルールでもないが、始める前にメールで時間を決めてからチャットするという手順が、なんとなくお互いに暗黙の了解のようになっていた。
気が焦ってキーボードを打つ指もミスタッチばかりだったが、ようやく送信し終えるとすぐに返信が来た。
『大丈夫っ! すぐ会えるよっ!! でも五分待って! 鏡見たいの……』
理斗は最後の文に彼女のいじらしさを感じる。
「そんなに嬉しいのかな。可愛いな」
果たして五分後、期待した可愛い顔とは異なり、嬉し泣きの涙にまみれた少々不細工な彼女の顔を見ていた。
『ん……ぐすっ……良かった……もう会えないかと思っていたの』
「あの、ど、どうしたの?」
メールを見た瞬間に涙が堪え切れず、化粧を直そうとし始めたとのことだったが、結局諦め、理斗の顔を見た瞬間にさらに涙が増え始めたらしい様子だった。
『だって会いたいときに全然会えなかったから。メールも洞見さんから全然送ってこなかったし、わたし、もう完全に振られたのだと思って……』
自分が連絡しなかったときに、そこまで思いつめていたのかと、あまりにも悲観的だった彼女が愛しく思え、また可愛く見える。
「いや、実はさ――」
彼女の様子に、理斗は報道されている範囲だけを話すことにした。そのなかに自分がいて怪我を負ってしまったことを。
『そんな……危険なことになっていたなんて……』
激しいショックを受けたのだろう。両手で口を覆ってわなわなと震えている。
(やはり、言わないほうが良かったか……)
理斗は言ってしまったことを後悔していた。
『この国ではそんなこと報道されていないの。なんでもかんでも中国の言いなりで……』
紗奈は悲しみのなかにかすかな悔しさを滲ませている。
「西日本では民主化運動は進んでないの?」
理斗たちは西日本人民共和国を西日本と呼んでいた。紗奈は西日本の国民だった。
『草の根レベルで、細々と続いているわ。でも誰も本気じゃない。無理だってわかっているのよ。わたしも実際無理だと思う。だって、国の中枢や共栄党は、何よりも利権が大事なんだもの。自分達が掴んだ利権と支配の構造を決して手放しはしない。前に言ったことなかったかしら? 祖父と伯父のことを』
「いや、君の家族については、伯父さんが共栄党員だってことは聞いたけど」