おつかれさまです、ユリリカ探偵社
青年の眼から涙が溢れ出す。それは落胆と、社長への同情とが混ざった涙だろう。だが、社長はそう思わなかったらしい。
「うん、わたしはこれしか渡せないのだ。だが、こんなものでもそんなに感動してくれるのならば、これほど嬉しいことはない。是非受け取ってくれたまへ」
と言うや、「何もないな」と、包むものがないのに気付き、引き出しをいくつかあけて風呂敷を見つけると、それで包み始めた。
青年に漂う、そこはかとない侘びしさ。まるで小さな藩を脱藩し、持ち物は僅か風呂敷一つという出で立ちで下城する気分である。
そして江戸の町人かと思うほど器用に一升瓶を風呂敷で包み終わった男は、金庫からもう一本一升瓶を取り出した。
「まま、最後にお互い呑もう」
普段青年が使っている湯飲み茶碗を手にして来客用のテーブルに置き、ソファーに腰掛けるよう促すと、酒をついできた。
「……っ、いただきますっ!」
悲しさが止まらないのか、青年はとめどなく流れてくる涙を拭き拭き、男につがれるままに呑み干すと勺を返す。
二人は悲しいのか、それとも互いを思いやる気持ちが嬉しいのか、夕暮れの陽射しが差し込むなかで、何杯となく酌み交わし続けていた。
第一章 日常
「んあーっ!」
呉波(くれは)家の朝は早い。しかし、今朝は遅かった。
部屋から聞こえるお転婆な叫び声、と同時にドアを蹴破るように飛び出した少女。
彼女の名は凛々花(りりか)。金色にも銀色にも輝く美しい髪をなびかせる後姿は充分美少女と呼べるものだ。
ずり落ちそうなスカートのファスナーを左手で上げ、胸元のボタンを右手ではめながら、隣の部屋のドアを足で器用にノックする。
「お姉ちゃん遅刻しちゃうよっ! 起きてっ!」
そう叫ぶ横顔を見れば、ジト眼に手入れされていない太めの眉。
美少女?
疑問符がふと浮かぶ。
昨今は萌えの一分野たるジト眼。だが、彼女の場合はどちらかといえば薄ら眼に近いせいか、美少女と呼ぶには憚れてしまう。
凛々花はドアの奥からの返事を待たずに慌しく階段を下り、キッチンに駆け込んだ。馴れた手つきで食パンをトースターに放り込み、フライパンをガス火にかけて卵を三つ落とす。
どの動作もダンスのようにキレのある動きで、おとなしい印象のあるジト眼キャラとは一線を画している。
「あ、どうしよう時間ないかな……」
迷った刹那には菜箸でかき混ぜ、チーズを投入。
「えーと、お皿、お皿っと……」
背後の棚を覗き込み、ふんふんと鼻唄まじりに取り出したのは白い皿が三枚。
「やっぱり朝は真っ白いお皿だよね、うわぁっ! 焦げちゃう」
素早く火を止め、皿により分けると、チーズが糸を引き、辺りには焦げたチーズの香りが広がる。凛々花がすぅーと吸い込んだとき、がちゃりとドアが開いた。
「ふわぁ……凛ちゃんおはよう……」
ドアから顔を覗かせたのは凛々花より一学年上の長女百合だ。
きりっとした細眉にさらりと真直ぐな黒髪、鈴を張ったような眼は少し切れ長で色っぽく、聡明な青眸を宿した少女、なのだが、今は眠気から覚めやらず、すぐにでもとろとろと眠りに堕ちそうな締まりのない顔をしている。朝食前はいつもこんな態である。
「お姉ちゃん! シャロにごはんあげて」
「にゃ、な……んで……そんなに、急いでるの?」
主人同様お腹をすかせた愛犬シャロが、こちらは朝から元気いっぱいに百合の足元にまとわり付いている。小さい体をめいっぱい使って腰を左右に振っているので、尾が千切れ飛びそうだ。
「ってお姉ちゃんいま何時だと……あれ? いつもよりちょっと遅いくらい?」
時計を見た凛々花は、忙しく動かしていた手を止め、小首を傾げた。
「今朝は目覚まし止めてぬくぬくしてるときにパパが起こしに来なかったんだよね。それで二度寝しちゃったから寝過ぎたかもと思った」
「そう……」
殆ど眼を閉じたままの、まだ頭の回転が鈍そうな百合は適当に相槌を打つと腕を上げ、ぐーと背伸びをした。シャロもつられて今更気付いたように姿勢低く背筋をそらし、伸びをする。
可愛らしい乙女とその愛犬が見せる微笑ましい光景。いや、今朝の凛々花の眼にはそう映らなかった。胸をそらしている姉の豊かな膨らみに視界がクローズアップされ、ぎょっと眼を丸くする。
(あれ? また大きくなった!?)
思わず俯く。
(やっぱり大きくなってる)
自分の胸と比較して確認。ここ最近サイズが変わらないので、基準として有用な自分の胸が恨めしい。
くっ、とがっくりうな垂れると、その視線の先にはキャベツが乗っているまな板が……。
凛々花は眉間にしわを寄せ、八つ当たりするかのように包丁をまな板に叩きつけ始めた。千切りの予定だったキャベツが乱切りになっていく。実に食べづらそうだ。
「でも、大丈夫よ。これからこれから!」
こめかみを流れる一筋の汗は、言葉とは裏腹な焦慮の証だろうか。
「おなかペコペコ……ごはんまだ?」
「待ってよ、もうちょいだから」
この食いしん坊の姉め、だからあんたのおっぱいはそんなに大きいのか!と心の中では無自覚な悪態がついて出る。
「ぐぅ……待てない……」
百合はシャロを抱き上げ顔を寄せた。そして、舌を出していた彼女(可愛い名前の通り雌である)の口を人差し指と親指で閉じると大きく口をあける。
「ちょっと、お姉ちゃん。いくらおなかがすいたからって、シャロ食べないでよ……ほら嫌がってる」
シャロの鼻と口を覆う百合の唇。厚めにも薄めにも見えるが、形が良いことだけは確かなその唇が、朝陽の中に艶やかに光っている。凛々花は姉の唇に思わず見惚れた。
その瞬間、消えかけているある記憶が凛々花の脳裏をよぎった。
――それはまだ二人とも幼稚園生だった頃。
ぽかぽかとした春の暖かい季節。
近頃毎日のように姉とおままごとをしている小さな庭先。
その日、姉にもうおねむの時間ねと言われ、凛々花は横になった。
「ほらぁ、りんちゃん、うでまくらぁだよー」
添い寝して伸ばしてきた姉の腕に、素直に頭を預けた凛々花。
その心地良さにまどろんだ刹那だった。
ふと眼をあけてみれば、眼の前に姉の顔が大きく迫っている。
『――ふぁ、おねえたんなにしてるの。え? キス?』
そう凛々花が言いかけたとき、百合は突然大口をあけて、
カプッとかぷりついた。
鼻から口のあたりにかけて、姉の柔らかな唇に覆われて生温かい。
『たべてるの!?』
驚きのあまりに体が動かず、声も出せない。
『あたしむしゃむしゃとたべられちゃうの!?……どうしよおっ!』
混乱する最中(さなか)、百合は『はむはむはむ』と歯を立てずに三回噛んできた。
ようやく凛々花に喋る余裕ができたのは、姉がやっと口を離してくれたとき。
「お、おねえたん。なにやってるの!?」
「だって、りんちゃんかわいいんだものぉ。たべちゃいたいくらい」
百合は平然と答え、妖しくにっこりと満足げに微笑んだのだった――
ぶるんぶるんと顔を振る凛々花。その後、何度も姉にかぷりつかれた、背筋をぞぞぞとなぞるような記憶が蘇る。
だが、いつのまにかされなくなっていた。最後は小学生一年生だったか、それとも二年生だったか。
作品名:おつかれさまです、ユリリカ探偵社 作家名:新川 L