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おつかれさまです、ユリリカ探偵社

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 ――探偵?
 そんなものは手垢と埃にまみれるだけの仕事よ
 悪いことは言わない、夢も希望も捨て去った方がいいわ
 でもどうしてもやりたいというのなら話は簡単
 必要なものは探偵業開始届出書
 それを公安委員会に提出するだけ
 あとは依頼を取って来さえすればいい
 もし、あなたに探偵を続けられる勇気が備わっているのならばね……

「ある探偵がそんなこと言ってたらしいわよ。わかった?」
「何がわかったよ。ポエム終わったと思ったらアンパン頬張ってもぐもぐさせながら言わないで」
「はむっ……おなか空いて……もぐもぐ」
「でもさ、何でアンパンと牛乳なの?」
「さあ……? 張り込みには定番だってお父さん言ってたけど、何でかしらね」
「でも確かに美味しいかも。こうやって一緒に食べると口の中で餡子と牛乳が混ざってまた絶妙なコクが出てなかなかっ! 新発見だね!」
「普通に生クリームアンパン買ってきた方が良かった?」
「あ……そっちのほうが良かったかも……」


序章 手垢と埃と酒

「やめさせてください。もう限界です」
 薄暗い部屋の中で、突然声が響いた。
 辞意を告げたのは、スーツに身を包んだ眼元凛々しい青年。向かいには、同じくスーツ姿の、至って平凡な中年の男。
 男は机に頬杖をつき、間抜け顔を隠さずに安閑と欠伸をしていたが、目前に起立する青年の言葉に思わず眼を剥いていた。
「社長、僕はやりがいが欲しいんです」
 再び口を開いた青年の様子から察するに、恐らくここ数ヶ月間溜め続けていたに違いない胸の内を吐き出しているのだろう。
 この二人の男しかいない殺風景な事務室の、只でさえ陰湿で狭い部屋の空気が更に重苦しくなっていく。
 気圧され、所々剥げた革張り椅子の背に力なくもたれる社長と呼ばれた男。
 青年の力に満ちた眸から一度こそこそと逃がした視線を戻すと、年長の威厳とばかり、噛んで含めるように言葉を返した。
「やりがいある仕事は危険と紙一重だよ。特にこの仕事はね」
「安定且つ安全な仕事は、た、い、く、つ、と紙一重ですよ」
 窓の外から、下校途中の中学生らしい男女の若やかな声が聞こえてくる。
 振り返る過去は些少。
 未来への展望は無尽。
 そんな若者だけが、言ってのける言葉だった。
 男は眼元を曇らせ、眉根を寄せる。
 青年の言葉に対してではなかった。今の自分を形作った痛切な過去を思い返すと、彼はその表情にならざるを得ないのだ。
 男の視線の先にあるのは、青年が普段使っているデスク。
 その周りの三つのデスクは、パソコン、プリンター、分厚いファイル、A4用紙などが雑多に積み上げられた単なる荷物置き場と化している。
 この部屋には他に社長のデスク、それに来客用の小汚いソファーとテーブルが部屋の隅にあるだけだった。
 長居無用の雰囲気を醸し出している部屋。男だけの職場はかくも色気がない。希望に溢れた青年がとても我慢できる場所ではない。
「僕は……残念ですが、退屈に耐えられない性格なのかもしれません……。来る日も来る日も一件三万円の採用調査ばかり。これを週数件のペースでやってきましたが、もう無理です。いったいなぜ社長は採用調査の仕事ばかり取ってくるんですか」
「君も知ってるだろ。採用調査は、企業がほぼ定期的に一定数依頼してくるから、収入の見通しがたつ。調査内容も正社員やアルバイト応募者の履歴書内容や素行を調査するだけだから簡単かつ安全だ……ただその安さがネックだから、件数をこなすしかないってことなんだが、それが君には辛かったのかな」
 男の問いかけに、青年は姿勢を正した。よく絞り込まれた筋肉の造形美が、彼のスーツの着こなしに見て取れる。
「僕はもっと、人の人生を左右するような、重大な案件に関わりたいのです」
「採用調査も結果次第で充分左右するんだが……ああ、例えば、美しい一人娘が誘拐され、身代金を要求されているが警察には届けられない被害者から解決を依頼されたり、といった仕事かな?」
 男は首を傾げて問うた。
「ふっ。そのような依頼や、殺人事件を警察から依頼されたりといったドラマみたいな仕事を望んでいるわけではありません!」
 見縊られたと思ったのか、青年は右の拳を強く握り締め、細かく震わせている。
「僕は……僕はですね、同じ探偵の仕事でも、しゃ、社会と密接に関わり、この世の趨勢を左右するに関与し、また俯瞰する立場として社会に存立していきたいのです」
「ふむ……つまり、ヘッドハンティングされるような人物の身辺調査の結果、実はその業績に隠されていた大きな黒い影を暴き、果ては海外までマネーロンダ先を追跡したりと――」
「そういうことはよくわかりません。えーと、そう、今をときめく声優アイドルの身辺警護なんて、まさに社会的影響力ある人物の生命を預かる重要な任務。これこそ社会を俯瞰できる仕事ではないでしょうか――」
「お、おう……まあ、声優アイドルかどうかはともかく、芸能人のその手の仕事を引き受けている会社もあるな」
 男はこめかみに流れる汗を拭った。真冬にもかかわらず暖房が充分に効いていない薄ら寒い部屋なのだが。
「ですが、ここでは採用調査と、たまに浮気調査するくらいで……特にこの前の中年カップルの不倫は一日中自転車ツーリングでそれを一人でずっと尾行して。しかも女性は僕の好みとは程遠くて……ま、それはともかく、あんなに体力使ったのは初めてです。本当に心身ともに疲れました」
「ああ、あれはわたしが悪かった。あの日は二日酔いで――」
 青年はスーツの内ポケットからすっと意味ありげに封筒を取り出し、机の上に置く。封筒に書かれている文字は、『退職願』。
 当然わかっていたが、男は忌むもののように一瞥した。
「意志は堅いというわけか……」
 わざとらしく抑揚をつけた言葉が溜息とともに洩れる。引き止めることは既に諦めているが、形だけでも取り繕い、社長として、人として、青年の気を惹きたかったのだ。
「はい。今はやりかけの仕事もありませんし、できれば今日付けでやめさせてください」
 封筒を押し出し、慇懃な礼をする。もう青年には確固とした意志しか感じ取れない。
「そっか、残念だよ唯一の社員を失うのは。しかも君みたいに若くて優秀な探偵を失うのはね。ま、安月給のうえ色々と無理をさせたのかもしれない……くっ……仕方がないか。まあ零細企業だが、餞別にこれを受け取ってくれ」
 男は涙をこらえ、鼻を啜りながら立ち上がると、おもむろに部屋の端まで歩き、小さな金庫をあけはじめた。
「いや、結構です。たった五年しかお世話になっていないこの身で退職金を受け取ることなんて――」
 青年は恐縮しながらも、右手をおずおずと出す。そして、彼もこれまでの苦労を思い出して感極まったらしく、下を向いて左手で目頭をおさえた。
「ん?」
 冷たい感触。ずしりとやけに重たい。青年は掌に乗せられたものをしっかり攫み、顔を上げた。涙で少しぼやけたなかに見えてきたのは……一升瓶だった。
「これは……? 社長、金庫の中も全部一升瓶じゃないですか……」
「うん、次女に見つかると怒られるのでね」