おつかれさまです、ユリリカ探偵社
道路上に女性が飛び出し、それを見て谷田部が急ブレーキをかけたのだった。
音は大きかったものの、実際には比較的余裕を持ってよけていた。
女性が飛び出したのは充分前方で距離があったが、谷田部はよそ見をしていたので焦ってしまい、かなりつよく減速したのだろう。
はた目には危険な状況ではなかったが、音があまりにも大きくて、周囲の誰もが大事故かと注目するほどだったのだ。勿論急ブレーキをかけなければ女性を轢いていた可能性もあったが。
「良かったー何もなくて。もう、ひばりが変なことするからでしょ」
百合の言葉に梢が付け足す。。
「でも、あの女性が故意で飛び出してきたように見えました」
「そうだった? どっちにしろちょっとやりすぎたかな……」
ひばりもさすがに反省気味だ。
飛び出した女性はというとすぐに姿を消し、谷田部は周囲を確認すると走り去っていく。
「自殺未遂とかかな?」
「そうかもしれません」
「……ん? 百合聞いてる?」
「え? あ、ごめん。自殺とか聞いて、ちょっと妹のことが気になって」
「凛ちゃんどうしたの?」
「具合悪いって言って今日休んでるの。でも実は昨晩大喧嘩したのが理由で。家で大人しくしていればいいんだけど……まさか……」
電話をかけてみるが、通じないことを知らせるアナウンスが流れるだけだ。急いでGPSで調べる。
調べている最中にふと思い出したのは、昨晩の凛々花の言葉。
『家族が崩壊したって! どうなったって!いいんだね!……もう……もう……もういいよ!!』
「家に居ない……ごめん、ちょっと凛ちゃんを探しに行ってくる」
二人を残し、百合は一人駆け出していった。
§
ある繁華街の、ある雑居ビル。
ひび割れと塗装の剥がれが目立つ、お世辞にも綺麗とは言えないビルの前に凛々花は立っていた。
冬の陽が暮れるのは早い。薄暗い中、繁華街のネオンに照らされるアスファルト。
そのアスファルトに沁みた反吐の臭いに顔をしかめながら繁華街を歩き回ったすえ、このビルの地下への入り口に辿り着いていた。
狭さと薄暗さと湿っぽさと、そして黴なのか何なのかわからぬ妙な青臭さに、すぐにでも引き返したい。
しかし、凛々花は勇気を振り絞って階段を降りていった。
岡浦という名の女性のあとをつけてきてしまったことへの不安と後悔が湧き起こってくるなか階段を降りきり、鉄扉の取っ手をめいっぱい力を込めて引っ張る。
むんっ、とした臭いが鼻につく。
扉を閉めると暗くてよく見えなかった。眼が慣れるに連れ、狭い廊下の先に白い蛍光灯の光が漏れているのが分かった。
こんなところに何があるんだろう、あの女の人は何をしに来たんだろう。
凛々花は不思議に思いながら光に引き寄せられていった。
床も壁も天井まで、コンクリートの打ちっぱなしの殺風景さ。
一歩そして一歩と、つま先で探るように歩いていく。肩にかけていたバッグの紐をぎゅっと握り締める。
角を曲がり……あっ、と人の気配を感じ取ったときにはもう遅かった。
「おおっ! びっくりしたわー!」
女性の大きな声に、凛々花は飛び退った。
鉢合わせになった相手の女性の顔を見ると、またもや『あっ!』と咽から何かがせり出す感覚に襲われた。
眼の前の女性は、紛れもなく凛々花が尾行してきた岡浦という女性、つまり調査対象者だった。
大失態だ……。
自分の迂闊さに、凛々花は言葉を発せず立ち尽くすしかない。
「もう驚かせないで。あなたも応募者? 飛び入り?」
焦る凛々花を見ながら岡浦が話しかけてくる。
(……応募者?)
凛々花は手がかりを求めて周りにさっと眼を走らせた。すぐ近くには簡素な机が置かれている。どうやら受付らしい。その机の前とわきの壁にはポスターが貼ってある。
『配信モデル、撮影会モデル オーディション会場』
その下には、
『参加者はロッカー室で着替えてお待ちください。コスプレ歓迎』
と小さく書かれている。
「ええ、実はちょっと考えてみたり……」
とっさにでまかせを言った凛々花を、岡浦は頭からつま先まで何度も眼を往復させ、ふむとばかり勝手に納得した表情になった。どうやら不審人物にだけは思われていないらしく、凛々花はひと安心する。
最後に凛々花の顔を見つめて「うーん」と渋い顔だが、凛々花の横顔と正面を何度か見てまたふむと納得する。
「あなたの場合は一万円位稼げるモデルになれるかもねぇ……磨き方次第だけど」
「一万円!? 日給で?」
岡浦が愛想よく話しかけてきたからだろうか、凛々花はいつの間にか失態を後悔する気持ちが失せ、思わず話に乗っていた。
「いえ時給でよ」
「えーっ!?」
「眼をいじれば三万円かな、それかサービス次第ね」
「三万円!?」
反射的に答えながら凛々花は迷っていた。
このまま誤魔化して去るか、それともオーディションとやらを受けてしまうか。
オーディションを受ければ、却ってこの岡浦に関する詳細がわかり、それを報告することで依頼主から高い評価を受ける。それは、信頼を失わないどころか更なる依頼数の増加に繋がる可能性がある。
それに加えて、三万円……。
いくつかの魅惑の言葉が凛々花の気持ちを揺り動かす。
「ええ、三万円よ。オーディション受けてみたら? あの部屋がロッカー室になっているから、そこで着替えて。衣装持ってきてる? なければ吊るしてある衣装を使って良いから。萌える衣装だとポイント高いわよ」
相手は変わらず気さくに話しかけてくる。
「……すぐ終わりますか?」
「ええ、いま一人審査してるだけだから、一時間後には帰れるかな」
それを聞いて凛々花は了承した。岡浦が承諾書を持ってきたので、凛々花は偽名を書き込んだ。父が偽名の名刺を持っているのを見たことがあって、自分も偽名を書き込むと少し父に近づけた気がして、凛々花は少し嬉しそうに微笑む。
そしてロッカー室へ入っていく。
そこには貸衣装屋のように服が沢山あるわけではなかった。
三万円。その数字が頭にリフレインされる。
もしかしたら探偵よりも儲かる仕事かもしれない。自分が沢山稼げば父にも楽をさせて上げられるかもしれない。
そんなことを考えながら、凛々花は吊るされている衣装を端から眺める。
「どんな服が受けるんだろう、萌える服って……。男性にも女性にも人気があるものが最強かなぁ。あ、これとか人気あるってよくネットで見るな」
凛々花は一つ、二つ、うんうんと頷きながら衣装を手にとると、隅の着替えの為のスペースに入っていった。
着替えた格好は寒かった。すると、モデル用に用意されているのだろう、畳まれた数枚のバスローブからひとつを取って羽織った。
「ここで待機していればいいのかな?」
パイプ椅子を広げて座る。ひんやりと薄ら寒い部屋だ。
一人静かにそんな寒いところで座っていると、高時給への高揚した気持ちが次第に冷めてくる気がする。
「あれ? なんでこんなことしてるんだろう?」
凛々花はここに来るまでのいきさつを振りかえざるをえない。
今朝、凛々花は姉に学校を休むことを伝えてから独り悩み続けていた。
作品名:おつかれさまです、ユリリカ探偵社 作家名:新川 L