センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <後編>
溢れた涙を倫の背中に染み込ませた。
「センパイがーー」
突然、お腹に回していた両腕を引きはがされた。倫はがばっと振り返ると、和歌子の二の腕をがっちり掴んで、
「オマエ、本気で言ってんの?」
とぐっと顔を近付けてきた。
涙でピントがぼやけ、倫の表情がよくわからなかった。和歌子は目をしばたたかさせて涙を振り落とし、改めて倫の顔に焦点を合わせた。
倫は暗闇の中で目を光らせて、怖いくらい真剣な表情で和歌子を見つめていた。もしかしたら泣いているのかもしれない。
「……ま、本気っす」
和歌子達の業界では、「本気」と書いて「マジ」と読む。
「マジで、本気っす」
倫の瞳が、きゅうっと縮んだ気がした。次の瞬間全身からぶわっと殺気のようなものが立ち上り、
ーー殴られる!!
和歌子は思わず目をつぶった。
「いい加減な気持ちで言ってたらぶっ殺す」
なぜか耳元で倫の声が聞こえた。
「……?」
目の前にあったはずの倫の顔が消えている。そこで和歌子はようやく、倫に抱きしめられていることに気付いた。
「オマエって、ほんと」
認識してから数秒遅れて、体が倫に反応し始めた。生命の緊急事態とばかりに、ありとあらゆる機関がリミッターを外して暴走し始める。
「オマエってホント……うらやましいよ」
首元に埋まった倫の顔が動くたび、和歌子の体は飛び上がらんばかりに反応した。
「私がずっと言えなかったこと、オマエはあっさり言えちまうんだもんな」
倫にしては珍しい拗ねたような口調ばかりが気になって、話の内容を認識するのに時間を要した。
……え?ずっと言えなかったこと……って?
うそ、まさか、どうして
「え?センパイそれってどういう」
言葉の輪郭は見えたが、和歌子にとってそれはあまりに思いがけない展開だった。
「……って言ってんだよ」
「え?センパイ聞こえな……」
「だから、私もオマエが好きだって言ってんだよ!」
察しの悪い後輩に言い聞かせるような口調で、倫は和歌子の耳元でがなった。耳の奥がキーンと痛んだ。
聞き間違いじゃなければ、センパイがアタシに好きだと言った。センパイが、アタシを……。
ありえない、でも、好きって、今好きって
半信半疑の和歌子の口から出たのは、信じられないほどアホらしいセリフだった。
「ら、らいくですか? らぶですか?」
はあ?と倫は顔を上げ、和歌子の顔をまじまじと見つめた。
「オマエ漫画の読み過ぎだろ」
呆れたような口調で言われて、耳たぶがカッと熱くなった。引っ込みがつかない和歌子は
「どっちですか?」
と、鼻息荒く倫に詰め寄った。
倫は、暗闇でもわかる薄茶色の瞳を細めて、探るような視線を和歌子に向けて、言った。
「オマエはどーなんだよ?」
センパイ、ズルい。訊いてるのはアタシなのに。和歌子は開き直った気持ちで、大きく息を吸い込むと、目の前の倫に思いのたけを叩き付けた。
「らぶです! ギョーカイ用語で言えば『愛羅武勇』です!」
和歌子の勢いに気圧され、倫は軽く体をのけ反らせた。相当こっ恥ずかしいセリフを吐いたのだが、当の和歌子は自分の言葉に興奮し、どうだとばかりのドヤ顔で倫の顔を見つめている。
「……私もおんなじだよ」
穏やかな声でそう言った倫は、見たことも無いような優しい笑顔を浮かべていた。和歌子は倫の笑顔に見蕩れながらも、降って湧いたような僥倖がまだ信じられず、突拍子も無いことを口走った。
「これ、夢ですよね?」
「……はあ?」
倫は和歌子の言葉に今度こそ本気で呆れたらしく、気の抜けた声を出した。
「だってセンパイがアタシのことす、す、好きとかって……夢としか思えないっす!」
「信じらんないのか、私のこと」
混乱し取り乱す和歌子に対し、倫は冷静な声で問い質した。
「信じるとか信じないとか、だってアタシ、こんなこと夢としか思えな……ッ!!」
倫の右腕が腰に回され、ものすごい力で引き寄せられた。倫の顔がアップになったかと思ったら、唇を強引に塞がれた。蘇る、あの日のフィルターの感触。
次の瞬間、下唇に鋭い痛みが走った。
「い……っ」
倫の顔が離れた。和歌子はたった今起こった出来事が信じられず、目の前の倫の顔を呆然と見つめた。下唇がツキンツキンと痛む。
「痛い?」
優しい声だった。和歌子は素直にコクンと頷いた。
「じゃ、夢じゃないよな?」
倫は優しい目をして笑った。
ああ、そういうことか。腑に落ちた瞬間、和歌子は顔から火を噴いた。心臓が爆発しそうな勢いで肋骨の下を跳ね回っている。
「乱暴なことして、ごめん」
倫はそう言うと、和歌子の下唇を親指でそっと撫でた。和歌子はもう何も言うことができず、カタカタ震えながら目の前の倫を見つめ続けた。薄茶色の瞳を震わせながら、倫がゆっくり顔を近付けてくる。頬を冷たい手のひらで包み込まれる。和歌子は目を閉じて初めて、自分が泣いていることに気付いた。
「泣くなよ、ワコ」
唇を離した倫が、鼻先同士をくっつけたままそう呟いた。
「だ、だって勝手に涙が出てくる……」
そう話す側から、涙がぼろぼろこぼれ落ちていく。倫は目元だけでちょっと笑って、両手で和歌子の頬を挟み込んだまま、親指で目元の涙を拭った。和歌子はただ倫にされるままになるばかり。頭の先から足の先までじんじん痺れて体にうまく力が入らない。
倫の唇が、和歌子の目元に触れた。和歌子は体を大きくわななかせ、膝から力が抜けそうになった。
倫は自分の唇を舌先で拭って、「しょっぺ」と呟いた。そしてまた、指先で和歌子の涙をすくいとってくれた。
その手つきは、信じられないほど優しかった。
「センパイ、優しい」
ふわふわ宙に浮いているような心地で倫に身を任せていた和歌子だったが、同時に目の前にいる人がまるで知らない人みたいな感覚を覚えた。一言で言えば違和感を感じた。
「でも優し過ぎて気持ち悪い」
子供のような素直さは和歌子の美徳であるが、同時に大きな欠点でもあった。
和歌子のあまりに率直過ぎる感想を聞いて、はっ、なんだよそれ、と笑った倫だったが、すぐに笑顔を引っ込め、真剣なまなざしで「優しくしたらだめか?」と訊いてきた。
和歌子はある強烈な感覚を覚え、一瞬気が遠くなった。
もしかして、「幸福感」ってこういう感覚のこというのかな。でも味わったこと無いからよくわからない。
深く考えることは苦手だ。
とりあえず和歌子は、思い切って倫の胸元にどんと体を預けた。倫はしばらく両腕を宙に泳がせ、だけど最後はがっしりと、和歌子の体を抱きしめてくれた。
倫に抱きしめられながら和歌子は、やっぱりこれって夢なんじゃない?と心の中でひとりごちた。
♢ ♢ ♢
何か長い夢を見た気がする。でも目覚めた時に頭に残っていたのは夢から受けたイメージだけで、それは色で例えればピンクとか水色とか、とにかくふわふわしたつかみどころのない、けれども体をあたたかく包み込むような、優しい優しい感触なのだった。
薄い布団の上で横にごろんと一回転してみる。畳に半分体を投げ出し、大の字になって天井を見上げた。
作品名:センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <後編> 作家名:サニーサイドアップ