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サニーサイドアップ
サニーサイドアップ
novelistID. 56539
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センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <後編>

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 和歌子は恐る恐る下唇に指をのばした。指先に小さな傷が触れた瞬間、鋭い痛みがつんと走った。
 
 よかった、夢じゃなかった。安堵感からか痛みからか、和歌子の目元から涙の粒がぽろりとこぼれた。
 思えば昨日から泣いてばかりだ。和歌子はそう思った。体のどこにこんなに涙が隠れてたんだろうと思うくらい、とにかく昨日はおんおん泣いた。あの涙は一体どこから来たのだろう。そしてどこに行ったんだろう。こんなこと、今まで考えたことも無かった。

 和歌子は大きく伸びをして、一回転して元の位置に戻った。その後も半回転、一回転、布団の上をごろごろ転がり回った。回りすぎてちょっと気持ち悪くなるくらい。

 決心がつかないのだ。

 早く会いたい気持ちと、会うのが怖い気持ち。顔は見たいけど、顔は見られたくないという複雑な乙女心。
 まあ、会うとか会わないとか大仰に構えているが、電車に乗ってわざわざ出かけて行くわけでもなく、単純にそこの襖を開けるだけの話なのだが。

 なかったことにされたらどうしよう。
 例えばそこの襖を開けて、いつも通りの挨拶を交わす。倫は「ああ」とか「おう」とか素っ気ない返事をするだろう。台所で朝食を作り、いつものメニューを向かい合って食べる。今日は盆休み最終日だけど何も予定は無いからおそらく部屋でだらだら過ごし、そうしているうちにまた朝が来て、いつもの日常がやってくる。そんな風に日々を過ごすうちに、昨夜の出来事が、その「いつもどおりの生活」の中に溶けて消えて無くなってしまうんじゃないか。
 幸福に慣れていない和歌子は、深く考えることは苦手なくせに、自らを不安に陥れる術にだけは長けているのだった。

 仰向けのまま首をぐぐっと反らせて、和歌子は襖を凝視した。視界の中で上下逆さまになった薄汚れた襖が、固く閉ざされた門のように見えてしまう。

 どうしよう。そう思った瞬間。

 襖がパーンと小気味よい音を立てて開いた。和歌子の視界に、上下逆さまになった倫の姿がいきなり飛び込んできた。
 思いがけない展開に、和歌子は仰向けで首を反っくり返らせているという間抜けな格好のまま、しばらく動くことができなかった。
 
 襖を開けるのは自分の役目だと、いつの間にかそう思い込んでいた。
 本当はどっち側からだって開けられるのだ。
 そんな当たり前の事実に今更ながら気付いた。
 
「夢じゃない、よな?」
「え?」
 逆さまの倫が、和歌子を見下ろしながら言った。
「昨夜のこと」
 逆さまの視界の中で、倫の瞳が不安げに揺れていた。和歌子は上半身を起こして、すぐ側に立つ倫を見上げた。倫は膝を折って和歌子の隣に座ると、じっと顔を見つめてきた。薄茶色の瞳を震わせ、眉間にしわを寄せたその表情は、和歌子が初めて見るものだった。 
 夢かもしれないと思ってたのはアタシだけじゃなかった。倫の表情を見て、和歌子はそう悟った。
 
 倫も不安を感じていた。その事実がかえって「これは現実なんだよ」と教えてくれてるような気がした。不安を感じるのは、「失いたくない」と願っている証拠だと思ったから。

 和歌子は倫の右手を取った。その手のひらを、自分の唇まで導く。
「ワコ?」
 戸惑いの声を出す倫に構わず、その指先を下唇の傷に当てた。感じる痛みは現実の証だった。
「センパイのつけた傷っすよ」
 そして倫の手のひらを頬に押し当てる。吸い付くように張り付いたその手のひらは、昨夜は冷たく乾いていたのに、今はほんのりあたたかく、しっとり湿っていた。
「……そうだったな」
 倫は眉間のしわを解いてそう言うと、和歌子の頬に当てた手のひらを首に滑らせ、ゆっくり顔を引き寄せた。
 
 下唇を食むような優しいキスに、和歌子はやっぱり行き先不明の涙を流してしまうのだった。

 ーー完ーー