センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <後編>
愛羅武勇
開け閉めするたびキイキイしきむ合板のドアが、今はやけに重く感じられた。
ドアを開けた瞬間、物音がぴたっとやみ、部屋の空気が緊張したようにきゅっと締まった。だけどそれはほんの一瞬のことで、部屋の雰囲気はすぐに元に戻った。
和歌子は玄関に散乱する先輩達の靴をやたら丁寧に並べ直し、買ってきた飲み物を一本一本冷蔵庫に納めた。だけどそんな時間稼ぎはもう限界で、どんな表情をするかも決めきれないまま、顔を俯かせて六畳間に踏み込んだ。
「ワコ遅かったじゃん」
「夜道はあぶねーぞー」
「あ、この余ったつまみ持って帰ってもいいか?」
先輩達の態度は不自然なほど自然だった。誰も和歌子の突然の離脱を問い質してこなかった。
長かった宴会はもうお開きのようで、やいのやいの言いながら皿を運んだりゴミをまとめたりしている。そんな中、先に部屋に戻った倫は、和歌子に背中を向けたまま黙々と空き缶をゴミ袋に投げ入れていた。
「んじゃそろそろ帰るか」
亜希の一言で、皆ぞろぞろと玄関に移動した。和歌子は一番後ろにひっそり控え、Tシャツの裾をぎゅっと掴みながら、心細い気持ちで先輩達を見送った。
「ワコ、料理マジうまかったよ。ありがとな」
「ほんとほんと、めっちゃうまかった」
「何か今日はワコのメシ食いに来たようなもんだったなー」
帰り際、先輩達は和歌子の頭をくしゃくしゃ撫でながら口々に優しい言葉をかけてくれた。和歌子と倫の間に何かあったことに気付かないわけないのに、騒ぎも詮索もせず、でも先輩達なりのやり方でさりげなく労ってくれた。和歌子は涙がぶり返しそうになるのを唇を噛んでぐっと耐えた。
「じゃな。また飲もうぜ」
最後にそう言い残し、先輩達はドアの向こうに消えた。
和歌子はしばらく玄関に佇み、閉まったドアを見つめ続けた。そして倫が六畳間に戻る気配を背中で確認すると、洗い場にたまった食器の山と向かい合った。
スポンジに洗剤を大量に染み込ませ、盛大に泡を立てながら、いつもより格段に時間をかけて食器を洗った。まるで大型犬をシャンプーする時のように、泡の山の中に両手を突っ込んで、鍋も皿もフライパンも一緒くたにじゃぶじゃぶ洗った。いつもは見て見ぬ振りするフライパンの焦げをがりがりこそげ取り、洗い上がったものを今度は舐めるように丁寧に拭きあげていった。最後にシンクまでピカピカに磨き上げてしまったら、とうとう台所に留まり続ける理由が無くなってしまった。
食器を洗い始めてからしばらくは、六畳間から片付けをする物音が響いていたが、今はシンと静まり返っている。肩越しにこっそり振り返ってみたら、案の定、倫の姿はベランダにあった。
今しかない。和歌子はそろりそろり六畳間に足を踏み入れた。部屋の中は、隅にまとめて置かれたゴミ袋以外、飲み会開始前の状態、いや、それ以上にきちんと整頓されていた。
和歌子は隣の四畳半に体を滑り込ませると、仕切りの襖をスッと閉じた。倫と物理的に遮断された空間に逃げ込むことができて、ほっとして気が抜けたのか、和歌子はへなへなとその場にへたり込んだ。
閉め切った四畳半は蒸し暑く、胸の谷間や脇の下にじんわり嫌な汗が滲み出してきた。疲れ切った体が横たわることを要求してくるが、布団を延べるのもだるくて、体育座りした両足の間に、ガクンと頭を突っ込んだ。
豆電球すら点けていない室内は真っ暗闇で、閉じっぱなしの目はいつまでたっても暗さに順応してくれなかった。
何であんなこと言っちゃったんだろう。
和歌子は深い深いため息を吐いた。先程の自分の振る舞いや言動が、断片的に和歌子の脳裏をよぎる。その度和歌子は小さく身震いし、膝を抱えた両手にぐっと力を込めた。
センパイきっと怒ってる。あきれてる。
胸の奥がぎゅーっと痛くなり、息が詰まった。ふいに、顔も知らない「龍一先輩」のイメージ図が勝手に頭に浮かび上がってきて、自分の想像力に腹立たしさを覚えた。
センパイ……
「センパイ……」
心の中で呟いたはずなのに、知らず言葉が出てしまい、和歌子は肝を冷やした。
だけど心で呟き、言葉として声に出し、耳を通してまた脳に戻ってきたその言葉が、和歌子が必死に隠そうとしている「倫への思い」を激しく揺さぶった。
「センパイ……倫センパイ……」
揺さぶられて、刺激されて、煽られて、膨れ上がって膨れ上がって。どうしようもなくなって。
すぐ側にセンパイがいるのに、どうしてアタシ、こんな部屋に一人で閉じこもってなきゃいけないの?
気付いたら、和歌子はすっくと立ち上がり、襖を開け放っていた。ベランダを通して流れ込んできた夜風が、火照った体を優しく撫でていく。
冷静な捨て鉢。あえて名前を付けるなら、そんな気分だった。
ベランダにいる倫の姿が目に飛び込んだ。
ドッドッドッドッ
心臓は小刻みに震え、全身が甘く苦しく痺れた。
この背中を失いたくないーー
和歌子は自分が何をしようとしているのか理解できないまま、その思いに突き動かされるように、細い背中に吸い寄せられていった。
どん、と体に軽い衝撃が走った。和歌子は倫の肩甲骨と肩甲骨の間に頬を擦り付けた。硬い背骨がごりっと頬骨に当たる感触。センパイ、痩せ過ぎっす。だけどその微かな痛みも愛おしかった。両腕を倫のお腹に回し、背中に体をぴったりくっつけた。
要するに、背後から倫に思い切り抱きついた。
センパイの体、あったかいーー
頬を通して倫の拍動が伝わり、全身でその湿った体温を感じた。倫の体は微かに震えていた。
アタシきっと、この感触だけで生きていける。ううん、生きていかなきゃいけない。
倫が小さく身じろぎした。
ーーやだ!!
和歌子は引きはがされないよう、お腹に回した腕にぎゅっと力を込めた。
キモいって言われてもぶん殴られても蹴っ飛ばされてもいい。今はただ、こうしていたい。
「ワコ……?」
倫は、困惑したような震え声でたった一言そう言って、あとは押し黙ってしまった。振りほどかれるのを覚悟したけど、その気配は無かった。
倫は体を固く強ばらせたまま、人形のように微動だにしない。ただ頬に伝わる心拍と肌で感じる体温が、倫の生身の生を感じさせた。
急に早くなったかと思ったらいきなり緩やかになったり、沈黙の時間は奇妙なリズムを刻みながら、二人の間に横たわっていた。
和歌子はその時間を利用して、心の中で自分の気持ちをゆっくり形作っていった。出来上がりかけたのを崩したり、途中で形を整えたり、試行錯誤を繰り返しながら行き着いたのは、結局はこのシンプルな二語なのだった。
「好き」
それはごく自然な形で、するりと口から滑り出した。
「好き」
1回目は自分に言い聞かせるため、2回目は相手に届けるためのものだった。
「……」
聞こえているのかいないのか、倫はまったく反応しない。
それでも構わない、と和歌子は思った。この際、言いたいことはすべて言い切ってしまおう。
「センパイが大好き」
倫の背中にぎゅっと唇を押し当てた。
「死ぬほど好き」
涙がじわっと溢れる。
「好きで好きでたまんない」
作品名:センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <後編> 作家名:サニーサイドアップ