My Funny Valentine
その夜の音楽教室からの帰り道、向こうから浴衣を着た3人の女の子たちが歩いてくるのが見えた。クラスの子たちだった。その中には、わたしを誘ってくれた子もいた。話に夢中で楽しそうなその子たちよりも先に気づいたわたしは引き返すことも出来ず、その子たちとすれ違うしかなかった。
団扇を振りながら歩いてくるその子たちは、わたしに気づいているはずなのに話を止めなくて、わたしも気づいていないふりをした。黒いトランペットのケースを持ったわたしと浴衣を着た彼女たちがすれ違った時、わたしを誘ってくれた子がわたしを見た気がした。
その子の金魚の柄の浴衣はかわいかった。別に、うらやましくなんかないと思いながら、自分がその浴衣を着ている所を思い浮かべて、自分には似合わないはずだとか、そんなことを思っていると、鼻の奥がつーんとなってきた。
泣くのは嫌だった。出そうになった涙を我慢して、出てきた鼻水をティッシュでかんだ。丸めたティッシュを道に投げ捨てたわたしは、我慢した涙の匂いと夏の夜の湿った空気を吸い込んだ。
あの時と違う場所でひとりトランペットを吹きはじめるわたしに、あの匂いが、あの時の気持ちがよみがえった。誰もいなければ、この世界にわたしひとりだけだと思えば、寂しくなんかない。あの夜もそう思ってトランペットのケースを握りしめた。
わたしは、あの頃と何も変わってない。
新しい家族が来てから、わたしはお父さんとあまり話さなくなっていた。最近家を空けがちなわたしの携帯に電話してくるお父さんの着信にも、わたしはでなかった。普段でも吃音が出始めていることを、お父さんに知られたくなかった。
再婚してから一年たってわたしが高校に入学した夜、わたしの部屋に来たお父さんは、転勤になる、今度は長くなるから、と言った。今度は海外に転勤になること、海外赴任になると何年も帰ってこれないことは前から知っていた。だけど、別にもう子供じゃないし、お父さんがいなくなったからって何も変わらないし、もう決まったことを聞かされても、どうしようもない。
返事もせずに黙っていた。話すことなんてなかった。
勉強机に向かうわたしは、横に立つお父さんのほうを一切向かずに机の上の家族写真の中のお母さんを見つめていた。
そんなわたしの耳に、写真の中でお母さんの隣に立つ男の謝る声が、写真の外から聞こえる。
「お父さんのこと、怒ってると思う。おまえにばっかり我慢させて、悪いと思ってる。」
別に、我慢なんかしていない。わたしが何を我慢していると思ってるの?今まで何も言わなかったくせに、今さらそんなこと言って、何もわかってないくせに。全部、口にしなくちゃいけないの? 全部、言葉で言わないとわからないの? わたしが何も言わないからって、わからないふりしていたくせに。わたしが何も言わなければ、わからないままでいいと思っていたくせに。
わたしには、この写真だけあればいい。これ以上のものはいらない。だから、何もしゃべりたくない。
「このまま、おまえと何も話さないで行きたくないんだ。意地悪しないで何か言ってくれ。お願いだから、おまえの声を聞かせてくれ。」
その言葉にわたしはトランペットをケースから取り出し、お父さんの前で思い切り吹いた。
聞け、これがわたしの声だ。
あの曲を吹いた。お父さんが昔よくピアノで弾いたあの曲をわたしは、この家の中に思い切り大きな音で響かせた。その音に驚いた新しい家族が下の部屋から上がってきた。
この声はあの人たちにはわからない。それはわたしたち2人だけに通じる言葉だ。その言葉を、このトランペットは、わたしのかわりに、わたしの気持ちをお父さんに伝える。
お父さん、わたしが勝手に聞いていたお父さんのレコード、あのレコードたちの中にわたしは、わたしが欲しかったものを見つけたの。うれしい気持ち、寂しい気持ち、くやしい気持ち、もどかしい気持ち、抱えきれないほどのわたしの思いのすべてを、わたしはあのレコードたちの中に見つけたの。
トランペットから口をはなすと、唇からマウスピースへ唾の糸が引いた。涙が気づかないうちに出ていた。泣き出すともう吃音が隠せなかった。
「レレレレココォーードォォ、ぜぜぜんんぶぶぶぅぅ、ちちちちょちょちょぅぅううだいいいぃぃぃーー。」
それ以上言葉が続かなくなったわたしは、新しい家族たちに泣いている自分を見せたくなくて、お父さんの胸に顔をうずめた。なつかしいお父さんの匂いがした。もう謝らないで、と言いたかったけど、わたし喉はもう、言葉が出せなかった。口を開くと涙と鼻水でしょっぱい味がした。お父さんは自分のシャツでわたしの鼻水を拭いてくれて、上手くなったな、と言ってくれた。
何もわからない新しい家族たちは部屋の外から、わたしとわたしの金色のトランペットをただ眺めていた。ひさしぶりに近くで見るお父さんの顔はやさしく微笑んでいて、小さい頃のお父さんと一緒だった。
その夜、わたしとお父さんは約束をした。
お父さんがいない間、ちゃんと学校に行くこと。トランペットをやめないこと。いつも背筋を伸ばして堂々としていること。自分に自信を持つこと。
「高校を出たら、お前の好きにしていい。向こうに来たかったら、来て欲しい。」
お父さんは、お前はだんだんお母さんに似てきたよ、と言った。
「お母さんもあの曲が大好きだった。」
わたしは、自分がお父さんに似ていると思った。言葉が足りないところなんてそっくりだ。
初めてトランペットの音を出した夜からこの夜までいろいろなことが変わった気がするけど、何も変わっていない気もする。あの夜も今夜も、お父さんとトランペットとわたしがこの家にいて、変わらない2人がお母さんと一緒にわたしの机の上、家族写真の中にいた。
高2の文化祭の日、わたしは行く所がなかった。いつもいる図書館もその日は閉まっていて、比較的仲のよい友達も忙しそうでわたしのことなんて思い出しもしないようだった。みんなはしゃいでいて、学校中を歩き回ってみても、どこも場違いな感じがした。することがない人なんて、わたしひとりだけみたいだった。
昼には帰ろうと思っていたわたしは、バンド有志を見ながら時間をつぶすつもりで、体育館に向かった。去年も見たけど、恥ずかしい衣装を着たへたくそなバンドが流行の曲を歌って、その友達たちだけで盛り上がっていた。床に並べられたたくさんのパイプ椅子の数の割には人がまばらなその場所で本でも読もうと思っていたわたしが体育館に入ると、3人の制服の子たちがステージで演奏を始めたところだった。
ステージに立つ彼女は歪んだ音で赤いギターをかき鳴らし、叫ぶように歌っていた。顔にかかる髪も気にせずにマイクに向い声を張り上げ、床を踏み鳴らしリズムをとる彼女は、見ているわたしたちにではなく、自分のために歌っていた。
かっこいいと思った。あんな風にわたしも歌ってみたいと思った。
彼女の声には力があった。何かを言いたいのに、どう言ったらいいのかわからない、そんな叫び声をあげる彼女は、歌うのが、叫ぶのが、仲間と一緒に演奏するのがうれしくてしょうがない、そんな風に歌う彼女が、わたしはうらやましかった。
作品名:My Funny Valentine 作家名:MF