My Funny Valentine
吹奏楽部ももう辞めようと思ってんだ、なんか人間関係めんどくさくてさ、結局みんなうわべだけだよ、と言って遠い目をしたエッちゃんはそんなに深刻そうでもなかった。自分は見かけほどマジメじゃない、と打ち明けるように言ったエッちゃんは、聞いてもいないのに中学時代に彼氏がいた、高校が別になってからは会っていないとカノたちに話した。彼氏が欲しいとも言った。そんなエッちゃんに今度男を紹介すると約束したナオミは、その約束をすぐ忘れるだろうとカノは思った。
そろそろ帰んなきゃ、と言って先に駅に向かったエッちゃんを2人は二階のその席から見ていた。カノより背が小さいエッちゃんの後ろ姿は、改札に向かう大勢の大人たちの中では子供みたいに見えた。
何も言わずにそれを見ていたカノにナオミは「あいつはうちらに憧れてんだよ。」と言った。なんでこいつはこんなに偉そうなんだ、とカノは思ったが、さっきまでカノの隣に座って楽しそうに笑っていたエッちゃんの小さい背中が改札の人ごみの中に消えていくのを見ていると、そんな気もした。
3 ヨシコさん
小さい頃からお父さんに似ているとよく言われたわたしの背は、長身のおとうさんに似てぐんぐん伸びた。クラスではいつも一番背が高くて男子によく、男だ、とからかわれた。それが嫌で猫背になりがちになったわたしは、お父さんによく注意された。音楽教室の先生にも姿勢のことを指摘された。
お父さんの肩車が好きだった。お父さんの肩に乗ると、見慣れた風景も違って見えた。大人の、お父さんの目線。自分も早く大きくなりたいという願いはかなったけど、やさしくしてくれる友達を見下ろすその景色は、お父さんの肩の上からの見晴らしほど気持ちのいいものではなかった。
わたしは小さい頃からおとうさんのことが好きだった。友達のお父さんはいつもわたしにやさしくしてくれたけど、わたしのお父さんのほうが背が高くて、他のお父さんのように太っていなくて、それに、ほかのお父さんみたいには、わたしを子供扱いしなかった。
わたしの吃音は小学校に上がる頃にはほとんど出なくなり、言葉の教室にも行かなくなった。周りの人たちは次第にわたしの吃音を忘れていったけど、完全に直ったわけでなかった。
音楽の授業が好きだった。クラブ活動の吹奏楽部も嫌いじゃなかった。譜面が読めるわたしには初めから出来ることが多くて不安も少なかった。
同い年の子たちよりも、音楽教室の年上の友達たちと一緒にいるほうが気が楽だった。おしゃべりな同い年の女の子たちが苦手で、クラスの子たちと遊ぶより、ひとりでいるほうが楽しかった。
トランペットを吹いているときが一番自分に自信を持てたわたしは、いつもマウスピースをポケットに入れて学校に行った。不安なとき、緊張しそうなときには、マウスピースを握りしめた。冬の寒いとき、冷えきって冷たくなっているマウスピースに少しずつわたしの手の温もりが伝わり暖かくなっていくと、わたしの緊張した心も少しずつ和らいでいった。
わたしが高学年になるとお父さんは以前より仕事で家を空けることが多くなった。家政婦さんが来ている間は家にいて欲しいとお父さんに言われていたわたしは、彼女たちが来ている間中、自分の部屋に閉じこもっていた。
わたしはその人たちが苦手だった。家に家政婦さんが来ている時だけ、寂しいと感じた。彼女たちと話すと吃音が出てしまいそうだった。家政婦さんはよくわたしに、ひとりでエライわね、と言った。わたしはただ、自分の家にいるだけなのに、他の子となんにも変わらないのに、かわいそうな目で見られると自分が本当にひとりぼっちのような気がしてきた。
だから、わたしはお父さんにお願いをした。家のことは全部やるから、もう自分で出来るから、だからもう、家政婦さんを断って欲しいと。
あの時お父さんを前にして、最初は普通に話せていたのに、途中で家政婦さんの顔が思い浮かんだら涙が出てきた。ゆっくりしゃべれば、詰まらないでしゃべれる。落ち着いて話せば引っかからない。相手の目を見ないようにすれば、そうすれば緊張しない、わかっているのにあの時は、何も言わずわたしを見つめるお父さんの目を見ながら話していた。
感情が高ぶってきて早口でしゃべり続けた。言葉に詰まりながら、つばを飛ばしながら、あんなに一生懸命になって何かを頼んだのは初めてだった。今まで必死に隠そうとしてきたわたしの吃音が、普段押さえ込んでいた気持ちがあふれ出てきた。
お父さんはいつも、わたしが言葉につまっても何も言わず、わたしが話し終わるまで黙って聞いてくれた。その時も、わたしが話し終わるまで何も言わず聞いていたお父さんは、ちゃんと栄養のあるものを食べること、ちゃんと鍵をかけて、火の元に気をつける、何かあったらすぐ連絡するように、とわたしに念を押して家政婦協会に電話をしてくれた。
その日からわたしは、家の隅々まで掃除をした。帰ってきたお父さんが驚く顔を想像しながら、家政婦さんがやらなかった家の周りまで掃除をした。遅く帰るお父さんのために、夕食をリビングの机の上に置いておいたりもした。出張が多くなり、たまに帰ると寝てばかりのお父さんの部屋はあまり汚れていなかったけど、タバコの匂いのする部屋の窓を毎日開けて空気を入れ替えた。
お父さんの部屋には古いレコードがたくさんあった。わたしにはわからないジャズのレコードばかりだった。適当に選んで大きい音で聞きながら部屋や廊下を掃除していると、聞き覚えのある曲があった。昔よくお父さんがピアノで弾いていた曲だった。わたししかいない、からっぽの家の中に響くその曲を聞いていると、あの頃がもう、戻らない思い出、過ぎてしまった時間のように思えてきて、少し寂しくて、心地よかった。
最近ピアノに触らなくなったお父さんはまだ、この曲を覚えているのだろうか。
ピアノの上の、わたしの本当の家族の写真、その中でやさしそうに笑っている女の人とお父さんは、一緒にこの曲を聞いたのだろうか。
数えきれないほどあるレコードをひとつひとつ聞いていくと、お父さんの心の中を覗いている気がした。わたしの知らない昔のお父さんがその中にいた。
一日中聞いていた。テレビを見るよりも、マンガを読むよりも、お父さんのレコードを聞いているのが一番楽しかった。
お父さんの部屋から流れ出て、誰もいない、わたしひとりしかいないこの家の隅々まで広がっていく音楽たちは、自分でも手の届かない、わたしの心の奥のほうまで届くようだった。
あの曲は、きっとお母さんが好きだった曲、その曲をわたしも好きになったと言ったら、お父さんは喜んでくれるだろうか。
そんなことを考えながらわたしは、ひとりっきりの家でジャズにはまっていった。
いくら家中を掃除しても、わたしはお父さんの奥さんの代わりにはなれないとわかったのはわたしが中2になった春の夜、お父さんから付き合っている女の人がいると聞かされた時だった。あまり驚かなかったわたしにお父さんは、今度会って欲しいと言った。
わたしはその人を知っていた。以前家の前に止まった車の中で、運転席の女の人とお父さんがキスをするのを、わたしはお父さんの部屋の窓から見ていた。あれはわたしの知らないお父さんだった。
作品名:My Funny Valentine 作家名:MF