My Funny Valentine
その時、カノにはその姿勢よく立つ制服の女の子が、昨日のヨシコさんと少し違う感じに思えた。昨夜チェーンの外れた自転車の前でしゃがみこみ泣いていたヨシコさんとは別人のような彼女は、友達たちと声を上げ帰っていく他の生徒たちの中で、ピンと背筋を伸ばし1人で立ち、なにか話しかけづらい雰囲気があった。
3人が近寄ると最初に、面識があるはずのエッちゃんが、「…こんにちは…」と小声で言ってから下を向いて黙った。ヨシコさんは、ああ、と言っただけで、それ以降エッちゃんのほうを見ようともしなかった。そんなエッちゃんとヨシコさんを交互に見てニヤニヤするナオミを前にヨシコさんはカノのほうだけを見て、緊張したようなカタい微笑みを浮かべた。
「きき、きっき、ききの、きの、きのう、昨日は、じじ、じじじ自転車、ああ、ああり、ありが、ありがとう、ありがとう。」
顔を少しゆがめながらヨシコさんは、カノの顔だけを見てそう言った。
昨夜のヨシコさんはカノと初対面で緊張していたのか、最初は上手く話せなくて何度もつらそうに言い直していたが徐々に慣れてきて表情も明るくなり、最後にはほとんど言葉に引っかからずに話していたが、カノには、今日のヨシコさんは元に戻ってしまったというか、キツい顔をしていて、気が張っている感じに思えた。
そのヨシコさんに不安な感じを抱いたままカノが「あっ、こっちがエッちゃんでこっちがナオミ。エッちゃんは吹奏楽部で知ってるでしょ。ナオミは、ほら、店で土下座した…」と言いかけるとナオミが肘でカノの脇腹を強く突き、見るとこわい顔で一瞬カノを睨んだかと思うとウフフと笑った。エッちゃんはまだ下を向いて黙っている。カノが苦笑いを浮かべてヨシコさんを見ると、2人をまったく見ないカタい微笑みのままのヨシコさんは、「あ、あ、あ、あの、こ、こ、ここ、これ。」と言って小さめのかわいい紙袋を差し出した。
その時突然ナオミが「うわーありがとう!!」大声で言ったかと思うと、その紙袋をヨシコさんから取り上げた。
カノが驚いていると、厳しい顔になったヨシコさんはナオミの正面に立ち、上から見下すようにナオミを睨んだ。ヨシコさんはナオミの頭半分位背が高かった。ナオミは顎を上げ、「なんだよ冗談だよ。」と言い、見上げるように睨み返す。
いったいなにが起きたのかと思いカノがエッちゃんのほうを見ると、エッちゃんはこれから始まるケンカを見届けようとするかのように少し離れたところで腕組みをして睨み合う2人を見ていた。
カノは訳が分からなかったがとりあえず2人の間に割って入りナオミから紙袋を取り上げ、ナオミを睨み続けるヨシコさんに「ごめんねごめんね、別によかったのにー。」となだめるように言うと、ナオミが「ヘッ!」とバカにしたように笑った。
どうしてこうなるのだろうとカノは思ったが、とりあえず二日酔いのナオミをヨシコさんから離したほうがいいと思い、紙袋の中身もわからないのに、「ありがとうね、こんなもの貰っちゃって、でもゴメンネ、ちょっと今日急いでるの。」と、ヨシコさんと、あとの2人にも聞こえるように言い、まだ睨みをきかせるナオミを引っぱっていきその場を離れた。
ヨシコさんは駅の方向に向かうカノたちを見送るように校門のところに立ち、離れていくカノを見ていた。少し歩いてからカノが振り返り大きな声でヨシコさんに、ありがとー、と言って手を振ると、遠くてよく見えなかったが笑顔で振り返してくれた。曲がり角をまがる前に、もう一度カノが振り返ろうとすると並んで歩いていたナオミがいきなりカノに肩を組んできて、なー、と気持ち悪い声を出し、チラッと後ろを見た。カノに、もう見るなということなのかわからないが、ベースを背負った酒臭いナオミに肩を組まれ体重をかけられ、密着されて頬をすり寄せられると、カノは気味が悪くなった。
なんでなの?と怒るカノにナオミは、別に、とか、なんとなく、しか言わなかった。エッちゃんは、「やっぱりこわいでしょあの人。あたしあの時殴り合いになるんじゃないかと思ったよー。」と言った。
そのあとのエッちゃんの話によると、エッちゃんが吹奏楽部に入部した時のヨシコさんは、背は高いけどおとなしい感じで、トランペットは部の中でも一番上手いのに、あまり目立たない先輩だった。でもカノたちが一年の時の文化祭が終わった頃から、ヨシコさんの様子が変わってきた。以前ならミーティングの時もただ微笑んで何も言わなかったヨシコさんは、言葉に詰まりながらも思ったことをはっきり言うようになった。前なら後輩にもちゃんと指導していたが、それからは勝手に練習させて自分はたまにしか顔を出さなくなった。エッちゃんが吹奏楽部を辞めたのはその頃だそうだ。「なんかみんなの雰囲気も悪くなってきちゃってさー、うわべだけは仲良くやってるんだけど、裏ではなんかドロドロしててさ。別にあの人だけのせいじゃないと思うけど…。」
エッちゃんが吹奏楽部を辞める少し前、先輩のひとりがヨシコさんのどもりを笑ったらしい。おとなしかった頃のヨシコさんは困ったような顔をして流して、気にもしない風だったが、その時のヨシコさんはそのどもりを笑った先輩に向かって行き、思いっきり頬を引っ叩いた。
「こわかったよー。バシンって音が音楽室の中に反響してその先輩も結構痛かったみたいでしゃがみ込んじゃってさ、みんなシーンとなっちゃって。」そうエッちゃんは話しながら自分の手のひらをビュンビュン振った。ナオミは水をガブガブ飲みながら、へー、やるじゃん、と感心していたが、カノは、エッちゃんのその話を聞いても、ナオミと睨み合っていたヨシコさんを思い出してもまだ、昨夜の、壊れた自転車の前でしゃがみこんで泣いていたヨシコさんの涙に濡れた頬と、その前の日のあの、せつなくてきれいなメロディーのほうが、本当のヨシコさんのような気がした。
練習が終わって行ったマクドナルドでやっと酔いが覚めたナオミがカノに、その袋早く開けて見ろよ、とせかすと、エッちゃんは、家に帰ってからのほうがいいんじゃ…、と一応言ったが、2人とも中身が気になっていたようだった。
カノは、どうしてこれを貰うことになったかは簡単に2人に話したが、ヨシコさんが泣いていたことは言わなかった。カノが、この為に買ってきたであろう地味だけどセンスのいい紙袋に貼ってある音符のシールの封が破れないように慎重に剥がすと中には、紙袋に入れられたカノのタオルと、ラッピングされた一枚のCDが入っていた。
作品名:My Funny Valentine 作家名:MF