My Funny Valentine
三鷹台の駅を過ぎた辺りから緑が多くなってきた。もうすぐ井の頭公園に着くはずだ。ここまで何分かかったのだろう。意外と近かった気もするけど、少し疲れた気もするわたしは、普段滅多に使わないギアを変えペダルを軽くした。段差を越える度に自転車の籠に乗せたトランペットのケースが跳ねる。昨日空気を入れたばかりのタイヤのせいで乗り心地は良く川沿いの暗い道を滑るように走っていけたが、漕ぐ度にチェーンかギアの辺りがギシギシ音をたてるのが気になり始めた頃、立教女子の横を通り過ぎた。小学校の時お父さんにこの学校の受験を勧められたことがあったけど、やっと出来た親しい友達と離れまた初めから友達を作るのが嫌だったわたしは、近所の公立の中学を選んだ。もしこの学校に通っていたら、今の高校に入ることなく付属の高校に進んでいて、もしかしたら今とまったく違う生活をしていたのかもしれないけど、家のことは同じだったと思うし、カノに会うことも出来なかった。やっぱり、今の高校でよかったのかもしれないと思いながらわたしは井の頭公園を通り抜けて吉祥寺駅のほうへハンドルを向けた。
今までの川沿いの道や住宅地と違い、井の頭公園からの道は人が多くて、丸井の看板は見えているのになかなか駅が見えてこない。これなら井の頭通りをまっすぐ来たほうが早かったかもしれないと後悔しながらやっとユザワヤの前を通り過ぎギアを元に戻した時、いきなりペダルを踏む足の力が抜けて前のめりに転びそうになった。
驚いてブレーキをかけ止まり自転車をおりて見ると、外れたチェーンがだらしなく垂れ下がっていた。吉祥寺駅の改札の出口の前から人を避けて高架下の端に自転車をとめる。どうしよう、こんなところでチェーンが外れるなんて。今までこんなことなかったのに。この辺りで自転車屋さんなんて知らないし、あってもこの時間なら閉まってるだろう。
人の多いこんな所いてもしょうがないから、いつも吹いている北口の閉店した銀行の前まで押していくわたしの壊れた自転車はカラカラとなさけない音をたてて、使えなくなったペダルが邪魔で歩きにくい。
銀行のシャッターの前に停めてよく見てみると、垂れ下がったチェーンは黒い油で汚れていて触りなくない感じだったけど、やってみれば簡単に直せそうにも思えて、トランペットのケースと手を拭くティッシュを脇に置いてから試してみる。初めて触るチェーンは見た目より重く、強く引くと手を切りそうでこわかった。おそるおそる持ち上げて、丸いギザギザまで引っぱっていっても、伸縮しそうな感触の割になかなか引っかかってくれなくて、本当にこれがはまっていたのか疑問に思えてきたわたしは自分の唇を触ろうとして急いで止めた。
手を見ると黒い油と茶色い錆で汚れていて、ティッシュがなくなるまで拭ってもまったく落ちなかった。
今日は置いて帰るしかないと思ってあきらめると、今夜初めて悲しくなった。
今夜はもう吹けない。こんな手で、トランペットを触りたくない。せっかくここまで来たのに、今夜あの曲を吹いて、それで最後にしようと思ったのに、それも出来ないと思うと、涙がこぼれてきた。
これ以上、引きずりたくない。お父さんのところに行くと決めたわたしは、早くカノのことを忘れなきゃいけない。この思いを残したままじゃ、お父さんのところに逃げていけない。
だから、カノ、お願い、わたしの中から出ていって。わたしを自由にさせて。
走れなくなった自転車の前にしゃがみ込むわたしが、涙を拭くティッシュもなく、汚れた手で流れてくる涙を拭っていると、後ろで誰かが、「今日は吹かないんですか?」と言った。
振り向くとそこには、カノがいた。
10 カノ
マクドナルドの2Fの向かい合わせの2人席で、あまり話さないヨシコさんと会話が途切れてしまうのが気まずくてしゃべりまくっていたカノは、ヨシコさんがじっと自分の顔を見ているのに気づいて我に返った。新しいギターがかっこいいけど意外と弾きにくいこととか、ナオミが万引きして捕まって店で土下座して許してもらったこととか、エッちゃんがコケコッコーの曲を鼻歌で歌っていたこととか、先週向かいでボヤがあって出てきたその家に人に「110番して!」と言われて生まれて初めて110番したら119番だったこととか、ヨシコさんに関係ないことばかりしゃべっていて、聞きたいことがあったのに、いろんなことを話しすぎて、それがなんだったのかすぐに思い出せないカノは、こうなるまでの時間をもう一度思い返した。
ここにヨシコさんと入ったのは、カノがこのマックでいいのか聞いたら、どこでもいい、みたいなことをヨシコさんが言ったからで、ここに来る前に行った他のカフェがどこもいっぱいだったからで、汚れたティッシュで手を拭いていたヨシコさんにカノが、どっかに入りませんか、と言ったからで、寒くなってきたし2人ともが手を洗いたくなったからで、2人ともの手が汚れていたのは、カノがヨシコさんの自転車のチェーンをはめてあげたら、ヨシコさんが、すごい、って言って本当に驚いた顔をしたその顔にチェーンの潤滑油がついていて、カノが、ついてるよ、って自分の頬のところを指でなぞったらカノの顔にもついてしまってそれを見たヨシコさんが、フフッ、って笑ったからで、カノがチェーンをはめながら、こういう時はギアを最大に緩めて後輪のチェーンをはめてからペダル軸のほうのギアに引っ掛けながらペダルを逆回転すれば一発だよ、と得意げに言ったのは、ヨシコさんが北口の銀行の前でしゃがみ込んで自転車を直そうとしていたからで、カノが、直してあげようか、と言ったからで、昨夜北口を通りかかった時にヨシコさんが吹いていた曲がカノの頭から離れなくてもう一度聞きたくて、今日もいるかもしれないと思ってわざわざ電車に乗って吉祥寺まで来たからだった。
そうだ、もう一度あの曲を聞きに来たんだった、と思い出した時、カノの携帯にメールが届いた。母親からだった。携帯の時計を見るともう11時を過ぎていて、ヤバいと思ってメールを開くと案の定、どこにいるの?すぐ電話しなさい、というメッセージの後に怒りのマークがあった。
ヨシコさんの前で母親に電話で怒られるのもかっこ悪いと思い、10分で帰ります、とメールを返してから、カノは、そろそろ帰る?と自分の携帯を開いていたヨシコさんに言って、メアドを交換してからマックを出て別れた。
ヨシコさんは別れる時、「あ、ありがとう。」と小さい声で言って携帯を持った手を振って、自転車で帰っていった。
それから30分以上してから帰宅したカノが、遅くなったことと、すぐに電話しなかったことと、あれから何度もあった着信に出なかったことを母親に怒られながら、ヨシコさんは大丈夫だったのだろうか、カノが、帰ろう、と言った時、ヨシコさんは自分の携帯の画面を深刻そうな顔で見ていたけど、彼氏か何かからメールでも着ていたのだろうか、と思っていると、「ちゃんと聞いてるの!」と怒鳴られたが、母親に怒鳴られるのは慣れているカノはそれでも今夜のヨシコさんのことを考えていた。
エッちゃんは、ヨシコさんのなにが変わっていると言ったんだろう。
作品名:My Funny Valentine 作家名:MF