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My Funny Valentine

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お父さんのところに行きたい。あの家を捨てて、お父さんのところに逃げて行きたい。近頃、普通にしてるときにでも「アッ」と急に大きな声が出てしまう。家でも、学校でも、電車の中でも、嫌なことが頭の中に広がってきて、それが自分の力では振り払えなくなると、声が押さえられない。周りの人が驚いた顔でわたしを見る。「その癖やめなさい!」と言った母の横でニヤニヤしていた兄。教室で隣の席の子が言った、「どうしたの?」電車の手すりにつかまりながら、叫び出しそうになる。手のひらで口を押さえるわたしは周りの人の声が聞こえるようで、必死に窓の外を見続ける。「なんなんだこいつは」「おかしいんじゃないの」次の駅で降りたい「迷惑なんだよ」「早く死ねばいいのに」「ひとりで首でもくくればいいのに」
このまま、消えてしまいたい。
そんな時わたしは、汗ばんだ手で、ポケットの中のマウスピースを握りしめる。あの曲を吹いている自分を思い浮かべて、カノの顔を必死で頭の中に思い描いて、助けて、と心の中に向かって叫ぶ。
あの家にいたくない。いたくないと思って飛び出しても、わたしには、どこにも行くところがない。

お父さんが転勤してしまうと、家族の態度が変わっていった。母は、むやみに微笑まなくなったわたしを最初持て余していて、お父さんに相談していたようだが、わたしを生意気だと思っていることは確かだった。お父さんの女であるあの人にとってわたしは、あの人の娘ではなく、家の中にいるひとりの女だった。
初めて会ったときからなれなれしかった兄は有名な大学に入ると自分に自信をつけたのか偉そうな態度をとるようになった。お父さんがいなくなった日からわたしを呼び捨てで呼ぶようになったそいつは父親のような口調でしつこく進路を聞き、勉強を見てやるなどと理由をつけて無理にわたしの部屋に入ってこようとする。聞いてもいない自分の大学の話を続ける兄を無視するわたしに、恥ずかしがらないで、これからはお兄さんを頼りなさいと、ワガママな娘を叱るように言う母は、自分の優秀な息子を妹思いな兄だと思っている。
そいつは兄なんかではなく、一緒の家の中に住んでいるただの男だった。あんたのかわいい息子が勝手にわたしの部屋に入って箪笥や机を物色しているのをわたしは知っている。下着が減っていたり、たたみ方が変わっていたりするのに気がついたわたしが部屋に鍵をかけると、次の日鍵穴をなにかで傷つけた跡があった。

それなのに、もっと気をつければよかった。あんなことしなきゃよかった。お父さんとの約束を破らなければよかった。約束を守って、ちゃんと学校に行っていればよかった。
よく学校をさぼるようになっていたわたしはその日も、いつものように家を出て、駅に向かわず近くをウロウロして時間を潰して、新しい家族がいなくなる時間が過ぎると家に戻った。2人とも向こうの親戚の家に行き、夕方まで誰もいないと思っていたあの日わたしは、わたしだけの時間を求めて、誰もいないわたしの家に帰った。
玄関を開けると、昔のこの家の匂いがした。この家に本当の家族だけが住んでいた頃の匂いがまだ少し残っていたのか、わたしの記憶の中にしか残っていない匂いが、わたしの頭の中だけでしたのか、懐かしくて、まるで、あの頃に戻ったようだった。そして、自分ひとりだけしかいなかったあの頃の時間に戻ったわたしは、あの頃のように裸になった。小さい頃、お父さんが出張でいない日、わたしはたまに裸で過ごしていた。服を全部脱ぐと、身体が軽くなって、すごく自由になった気がした。
お父さんの部屋は昔のままだった。天井まであるレコードの棚も、使い古されたステレオセットも、タバコの焦げた跡のある机もそのままで、さっきまでお父さんがいたみたいだった。カーテン隙間から陽の光がわたしの片足を照らしていて、その部分だけ暖かい。もうすぐ春がくるのかもしれない。高校に入ってやっと2年たったけど、もっと長かったように感じる。この家には思い出がいっぱいあるのに、あの高校にはなんの思い出もない。別に思い出なんかいらないけど、もし、もしカノとしゃべることが出来たら、思い出になるかもしれない。今日も学校に行っていたら、もしかしたらカノが見れたかもしれない。なにかがあって、もしかしたら、話す機会があったかもしれない、それで、もしかしたら、もっと近くで、カノの顔が見れたかもしれない。もしかしたら、もしかしたら、
その時、「何やってるんだ!」と笑うような叫び声が聞こえたかと思うと、誰かがすごい勢いで部屋に入ってきて、わたしの髪を掴んだ。はじめ何が起きたのかわからなかった。カノのことを思いお父さんの部屋のベットセットに裸で股がっていたわたしはそのまま引き倒され床に頭を打った。早く帰ってきたのか、もう夕方になっていたのか、すごい力で抱きついてくる兄は犬のように首の匂いを嗅ぎ、抵抗するわたしの頭を何度も叩いた。怖かった。あんな目をした人間を見たのは初めてだった。耳ががんがんして、手に力が入らなくなって目眩がしてきた。
一階で母の声がした。ただいまーと兄の名を呼ぶ声が聞こえると兄はわたしから離れ立ち上がり、「謝れ!」と裸のわたしを見下ろして母に聞こえるように大声で言った。二階に来た母に、こいつが裸で待ってたんだ、と兄はわたしを指差して言った。「勝手に親父の部屋に入って、裸で俺を待ってたんだ!」
人の家に入ってきて勝手にしているのはあんたらだ。わたしのお父さんを、親父なんて勝手に呼ばないで欲しい。何も言わず自分の部屋に帰ろうとするわたしに母は、お父さんが知ったらなんて思うの、と言い、睨むわたしの頬を叩いた。「兄弟をそそのかして!」

何を言っても無駄だと思った。何を言ってもわたしのほうが気違いになってしまうあの家の中に、わたしの場所はない。昨日わたしは、卒業したらそっちに行きたい、とお父さんにメールをした。返事はまだない。もしダメだと言われてもわたしには、他に行くところはない。
自転車の籠に乗せたトランペットのケースがガタガタと音をたてる。わたしは高校を卒業したらあの家を逃げ出すことに決めた。だから、今日で最後にしよう。あの曲を吹くのは、今夜でやめにしよう。それで、彼女のことをあきらめよう。どうせこれ以上のことが出来ないのならもう、むなしい思い出を作らないほうがいい。そうしないと、わたしは、どこにも行けなくなってしまう。
作品名:My Funny Valentine 作家名:MF