My Funny Valentine
大声で電話をしながら母が音を立て歩く。一日中電話をしている彼女の楽しそうな笑い声が、自分の部屋にいるわたしの耳の中にまで響く。小学校の頃、お父さんのレコードを聞きながらわたしが隅々まできれいにしたこの家には、嫌な顔をする母に気を使うわたしが掃除をやめて以来、あの人たちの埃が溜まりはじめている。気にならないあの人たちには、そのほうが過ごしやすいのかもしれない。
コートを着て、トランペットのケースを持ち上げながら、このまま出て行けたら、どんなにうれしいだろう、と思うわたしは母に気づかれないように階段を降り玄関を出て、夜の空気を胸に吸い込んでから、自転車で走り出した。
夜は、昼間の余計なものが見えなくていい。これから先のことを考えさせない。ペダルを踏みしめて車のない交差点を斜めに走り抜けると、点滅する信号が、誰もいない交番が、月のかわりに冬を照らす街灯が、わたしの気持ちを落ち着かせた。夜がずっと続けばいい。冷たい空気を頬に受けながら、昨夜のフレーズがまだ残るわたしの唇と右指と共に、今夜やる曲のことを考える。昨夜もあの曲を吹いた。お母さんが好きだったあの曲を、わたしは飽きもせず、あの場所で毎回吹いていた。カノに話しかける勇気のないわたしは、彼女の前でちゃんとしゃべれる自信がないわたしは、手紙のかわりに自分の思いを詰め込んだあの曲を、トランペットに歌わせていた。
線路沿いの道に入ると、あの曲がいつか、カノに届いて欲しいと願うわたしの自転車を、後ろからきた吉祥寺行の急行電車が追い抜いてゆき、風で揺れた髪が乾いた唇を叩く。
いつも、あの曲を吹いてカノのことを思っていた。カノのことを思っているときだけがしあわせだった。どこにも逃げられなくて、誰も助けてくれないから、カノのことばかり考えた。だからわたしは吹けば吹くほど、つらければつらいほど、どんどんカノのことが好きになっていく。
最近、やっと自分が、カノのことが好きだって、ちゃんと思えるようになってきたのに、その思いを胸に秘めるわたしは彼女を、見ていることしか出来ない。それだけが、今のわたしに許された唯一のしあわせだった。
それ以上のことは出来ないから、毎日、このままでいいって自分に言い聞かせていた。それでもわたしの心の中の、カノのいる場所が、勝手に大きくなっていって、必死に押さえ込もうとする指の隙間からこぼれ出るその思いがわたしに、それ以上のものを求めていく。
環八通りの信号を渡りチャンスセンターというむかつく名前の宝くじ売り場を通り過ぎ高井戸駅を見上げると、さっきわたしを追い越していったはずの電車がまだ停まっていた。
待ってなくてもいいのに、急いでるんなら早くいけばいいのに。
わたしは別に急いでない。急いでなんか行きたくない。わたしは誰かに吹けと言われたわけでもないし、あそこで、わたしが吹くのを、誰かが待っているわけでもない。何千回あの曲を吹いたって、彼女の耳になんか、届くはずなんかないのに。
今まで、どんな嫌なことがあっても、彼女のことを思い浮かべれば耐えられたけど、もう、それも出来なくなってきていた。嫌なことが、逃げたいと思う気持ちが、わたしを引っぱって、どんどんスピードを上げていく。カノのことを思うわたしの歌声は、助けを呼ぶ声に変わりしだいに細くなって、かすれていく。昨夜も、カノのことを思って歌ったわたしのメロディーは、どこにも届かずに街の音の中に消えていった。
電車で行くのはやめて、このままもう少し、自転車を走らせることにしよう。人のいる電車に乗ると嫌なことを、あのことを考えてしまいそうで、逃げることばかりを考えるわたしが乗る急行電車の車窓から、カノを思い自転車を走らせるわたしが追い抜かれていくところを、見てしまいそうだった。
ここから吉祥寺まで、どの位かかるんだろう。自転車で行ったことはないけど、道はわかる。少なくとも線路沿いに行けば大丈夫だろう。もしここから吉祥寺まですぐだったら、学校まで、自転車で行けるのかもしれない。カノみたいに、自転車で通えるのかもしれないと思いわたしは、もう一度サドルに股がった。もう少し、このままでいたい。思い切りペダルを踏みしめるわたしの気持ちを、黒いチェーンに伝えてせつない悲鳴を上げ進んでゆくこの自転車で、もう少し走っていたい。
富士見ヶ丘の駅を過ぎた頃、線路沿いに走ってきたはずのわたしの視界から線路が消え、少し不安になりながら川沿いの遊歩道を走る。右のほうには操車場なのか何本もの線路が並んでいて、暗い無人の電車が見えた。このまま川沿いに行けば井の頭公園に着くはずだ。青黒い神田川の水の中に、汚くて長い水草がそよいでいて、川がどちら側に流れているのかわかる。
わたしは昔、この辺で迷子になった。自転車に乗れるようになって、普段慣れ親しんだ近所の川沿いの道の終わりを見たくなった小さいわたしは確か、今のようにこの辺りで急に不安になったのだった。
日が暮れてきて聞き慣れた5時のチャイムを見慣れない場所で聞き心細くなったわたしは、終りまで行くのをあきらめ、引き返すことにした。すると、橋があるたびに渡りながらこの場所に行き着いたわたしは、どちらの方向が正しいのかわからなくなっていた。
どちらかに行けば必ず、見慣れた近所の川沿いにたどり着けるはずだけど、間違った方向に進んで行けば一生家には帰れないと思い、橋の欄干から暗くなった川を見下ろしたわたしには、川がどっちに流れているのかわからなかった。流れている方向が家の方向だと思ったのに、家の近所の川に葉っぱやゴミを落として遊んだとき、その方向に流れていったはずだから、どっちに川が流れているかわかれば、どっちに向かったらいいのかわかると思ったのに、わたしが見下ろすその暗い水面は、見れば見るほど、どちらに流れているのか、わからなくて、まるで、どちらにも流れているかのように見えて、わたしの小さな胸を混乱させた。
あの時、わたしはどうやって自分の帰る方向を知ったのだろう。自分の吃音のことを自覚し始めていたその時のわたしは、通りかかる人に聞くことも出来なかった。石かなにかを落としたのか、水草で川の流れる方向を知ったのか思い出せないけれど、完全に暗くなってから家の近所にたどり着いたわたしは、スーツ姿のまま家の前に立つお父さんが自分の名前を呼ぶ声を聞いた。涙が出そうになったけど、ひとりで遠くに行って迷子になったのを知られると怒られると思い泣くのを我慢したわたしは、お父さんを見て、緊張で忘れていた足の疲れを感じた。家に帰れたことよりも、お父さんの顔をまた見れたことに安心した。
作品名:My Funny Valentine 作家名:MF