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My Funny Valentine

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カノはそんな音を初めて聞いた。学校のブラバンの気の抜けた演奏なんかと全然違った。カノはその音を、声みたいだと思った。それはまるで、誰かが歌っているみたいだった。
足を止めたカノがその音のほうを見ると、背の高い制服の女の子がひとり、金色の管楽器を吹いていた。同じ制服だった。彼女は目をつぶり、祈るようにトランペットを吹いていた。周りで聞いている人もいなかった。
カノは立ち止まっていた。自分がどこに行こうとしていたのか一瞬忘れた。彼女が吹くその曲は、メロディーだけなのに、カノにはそれが恋愛の曲だってわかった。
立ち止まり聞いているカノを、行かねーのかよ、とナオミが引っぱる。カノは歩き出しながらその曲を、いい曲だと思った。公園口へ抜けるサブナードに入ってもその音はまだ届いていて、遠ざかるカノの耳からだんだんと消えていった。
いい曲だった。いい曲だけど、さびしい曲だった。ライブハウスに着いても、コケコッコーのライブを聞いても、その曲はカノの中に残っていた。
あんなせつない曲は、聞いたことなかった。あの子は、どうしてひとりで吹いているんだろう。
ライブが終わってモチヅキから彼らのCDを貰っても、カノはあのトランペットの彼女のことを思っていた。反応が薄いカノからCDを受け取り、そのジャケットの写真を見て吹き出しそうになるのを押さえながらナオミが言う「スゲーじゃん、これでデビューして人気が出てモテモテになったらアタシらなんて相手にして貰えなくなるんじゃないの?」という心にもない言葉を真に受けて、イヤーそんなことナイヨー、と照れるコケコッコーの3人を見ても、あの曲がカノの頭から離れなかった。
彼らのCDのジャケットの写真を駅に着くまで笑い続けていたナオミと別れてから、カノはもう一度北口に行ってみた。その場所にはもう彼女の姿はなく、浮浪者のおじさんが座っていた。もう一度聞きたいと思った。モチヅキたちのCDなんかよりも、もう一度あの曲をちゃんと聞きたかった。あの曲は、誰かのことを思って書かれた曲だと思った。悲しくても、誰にも見せられない涙みたいな曲だった。

「あー、あのどもりの人でしょ。」元吹奏楽部のエッちゃんがなにか知ってるかもしれないと思ったカノは昨日のトランペットの彼女のことを昼休みに話した。エッちゃんは彼女のことを知っていた。「わたしももう辞めちゃったからよく知らないんだけどさ、なんか吉祥寺の駅の所で吹いてるんでしょ、まだ吹部にいる友達が見たって言ってたよ、その子もその時話したわけじゃないみたいだけどさ。なんかこわくて声かけらんなかったって。もともとあんま話さない先輩だったし、ちょっと変わってて。で、見たの、あの人?」
カノは、ヤキソバパンを頬張りながらしゃべるエッちゃんが言ったその、どもり、という言葉が気になった。意味は知っていた。小学校の頃、カノの近所にもひとり、どもりの子がいた。その子はカノが遊んだことのない同級生の弟で、兄弟でいじめられっ子だった。顔もよく覚えていないが、あまりいい家じゃなかったのか、通学路にあるその子の家は古い木造で、その家も、そのどもりの子も、あの頃のカノには暗い印象があったし、その、どもり、という言葉も、何か言ってはいけない言葉のように思っていた。だから、なんのためらいもなくその言葉を口にしたエッちゃんに、カノは少し驚いた。
「昨日さ、ターニング行く時あの裏側のロータリーのところで見た。」
エッちゃんは彼女のトランペットを聞いたことがないのだろうか。
「そんなことよりさ、」エッちゃんはカノが今日持ってくとメールしたコケコッコーが初めて作ったCDを早く見せてと言った。その手作り感あふれるCDのジャケットの中で楽器をかまえてカッコつけるコケコッコーの3人に爆笑してお腹を抱えるエッちゃんを前にカノは、もうあのトランペットの子のことを聞くのはよそうと思った。これ以上聞くと、エッちゃんがなにか怖いことを言い出しそうな気がした。
昨日見たあの彼女は、確かに話しかけづらかった。カノより1年上なだけなのに、もっと上に見えた。大人っぽいというのと違う、かっこよかったけど、少し不思議な感じだった。
「えっ、名前?フジ、フジサキか、フジカワ、ヨシコだったと思うけどなんで?」
たったひとりであんな演奏をできるなんてすごいと思った。同じ学校にあんな人がいるなんて知らなかった。
カノは今日もあそこへ行ってみようと思っていた。それで、もしいたら、なんていう曲か聞こうと思った。

9 ヨシコさん

初めて自転車に乗れるようになった日のことは今でも覚えている。それまで補助付きの自転車に乗っていた近所の子供たちが次々に補助なしで乗り始め、学校や近くの公園を彼らが彼らの新しい自転車で誇らしげに走り始めた頃、わたしもお父さんと家の前の道路で自転車の練習を始めた。後ろの荷台をお父さんに支えてもらい、よろよろしながら走り出したわたしは、お父さんが手を離すとすぐに転んだ。アスファルトに肘や膝を打ち、転ぶのが恐ろしくて何度も後ろを振り返るわたしに、お父さんは「前を見ろ!」と怒った。「ずっと持ってるからちゃんと前を見て!腕に力を入れてしっかりハンドルを握って!」何度も転び痛さと怖さで泣きながら、わたしは後ろのお父さんの気配を頼りに、前を向き懸命に補助が外された自転車のペダルを踏み続けた。
日が暮れて来て、飲み込んだ鼻水の味と頬の上で乾いた涙の匂いを嗅ぎながら、疲れで転ぶおそろしさも忘れかけていたわたしは、一瞬、自分の身体が軽くなるのを感じた。数メートル走ってブレーキを握って止まり振り返るとお父さんが向こうのほうで「やった、やった!」と喜んでいた。それまであんなに怖かった自転車が、その瞬間から当たり前のように乗れるようになった。不思議だった。お父さんの支えなしでもひとりで走っていくことが出来るようになったその日の夕方と、わたし以上に喜んでいたお父さんの笑顔は、家に籠りがちだったわたしに新しい自信を与えた。力の続く限りペダルを踏めば、自分はどこにでも行ける。そう思うだけで嬉しかった。自分の周りの世界がずっと広がったような気がした。
あれから15年後、わたしには、どこにも行くところがない。身体も大きくなって、行こうと思えばどこへでも行けるようになった今のわたしには、どこにも行くところがなかった。
夕食を出来るだけ早く食べ終えたわたしが言いたくもない、ごちそうさま、を母に言い2階へ逃げる階段に、リビングのテレビの大きな音が響き、それに負けないくらいの大きさの兄の声が聞こえていた。あの人はまた、テレビに向かって文句を言っていた。お父さんのピアノを聴きながら幼いわたしが絵本を読んだリビングはもう、あの頃のような心地いい場所ではない。お母さんの写真が置いてあったピアノの上には母の雑誌が重なり、ソファーには兄の匂いが染みつき始めている。
作品名:My Funny Valentine 作家名:MF