ほんとうの日記
帰りの電車で手すりを握るわたしの手は、汗をかいていた。いくら考えないようにしても、それを想像する事を止められなかった。明日見に行った時に、もしまたいなかったら、店員に聞いてみようかと一瞬思ったけど、そんなこと、絶対に出来そうになかった。聞いてみた所で、あの子がひょっこり顔を出すなんてことは、ありえなかった。
わたしはその日まで、あの子がずっとあの場所にいて、わたしを待っていてくれる、そう思っていた。あの子とバイバイする日がいつか来るって、そんなこと、当たり前に、わかっていたはずなのに。
その夜の日記にわたしは、クッションに寝転がるあの子のイラストを描こうと思った。言葉に出来そうもなくて、でも、何かを残したかった。絵のヘタクソなわたしは、なかなか上手にあの子のかわいい顔を描けなくて、一生懸命あの子の顔を思い出そうとした。すると、なぜか頭から、あの子の顔が遠ざかっていく。あの子のかわいい長い鼻を描こうとすると、長くなかったような気がしてきて、茶色の子だったのに、白い毛だったような気がしてくる。思い出そうと、すればするほどわたしの中のあの子の記憶は曖昧になっていった。
あの子のことを、なんでもいいから、どんな形でもいいから、心に留めておきたいのに、言葉に出来ないから、せめて絵をって、思っても、頭に何も浮かばなくなった。
わたしはただ、わたしたちは、《気持ちが通じていたんだ》って、書きたいだけなのに、何も書けなくなったわたしは、手元の日記の白いページをただ、見つめていた。
駅前にいつもいる占い師のおばさんは、日が暮れる頃どこからかやってきて、銀行のシャッターの前にテーブルを組み立て始める。《人生・鑑定》《あなたの運命》と書かれた看板の前で、行灯みたいなもので手元を照らしながら、なにか古ぼけた本を読みながらお客が来るのを待っている。
たまに占ってもらっている人を見かける。わたし位の歳の女の人だったり、たまにサラリーマンのおじさんだったり、みんな悩みがあるんだって思って見ていた。
ずっと気になっていたけど、見てもらう勇気はなかった。何か言われるのが怖かった。悩みを告白するのがイヤだった。通りかかる人に、悩みがある女だ、って思われるのが恥ずかしかった。
そんなつまらないことを気にして、何も出来ないでいたわたしが変われたのも、あの占い師のおばさんの言葉からだった。
その日会社から帰ったわたしは、ずっとやろうと思っていたのに出来ずにいた、ベランダに置きっぱなしにしてあるいくつもの枯れた植木を片付けた。あの子の事を書けなくなった日から、日記自体も止まっていた。部屋を片付けることで、気分を変えたかった。枯れた植木をゴミ袋に集めて収集所に持っていき、植木鉢は重ねて隅に片付けるとベランダがすっきりした。土は集めるとたくさんあったから、コンビニの袋にいくつかに分けて、近くの公園に捨てに行った。夜の公園には人影もなくて、植え込みに土を撒いて、袋をゴミ箱に捨てて、全部終わったと思った時わたしは、自分が汗をかいていることに、誰もいない静かなはずの公園に、虫の音だけが鳴り響いていることに気が付いた。もう7月になるのに、運命の人は現れない。雑誌の占いは当たらなかった。ため息をついてから、初夏の空気を胸いっぱいに吸い込むと、いつかの遠い夏休みの夜の匂い。一瞬だけ、あの頃に戻った気がした。
疲れたけど、さっぱりした。全部、どうでもいい気分だった。
日記もこのまま書かなくなっちゃうのかなって思うと寂しいけど、この際だから捨てちゃって、今まで貯めてきた楽しいことも全部捨てちゃって、そしたらもっと、さっぱりするかもしれない。最近のいい事もだいぶ前のいい事だし、もう十分楽しんだから、味が無くなったガムみたいに、ペッって捨てちゃっても、もう、後悔しないかな。そんな事、考えながら駅のほうへ、人通りの多いほうに歩いていくと、駅前の銀行の前、その夜、占い師のおばさんはひとりだった。
誰かと話したかった、誰か知らない人と。占いは怖かったけど、日記を捨てていいか、それだけ、聞いてみようと思った。
「イヤな事ばっかり書いてない?」わたしの手相を見ながらそう言うおばさんの手は、冷たくてかさかさしていて、その人差し指が、わたしの右手の横線をなぞる。わたしは、日記にはいい事だけを書いていた事、最近それが書けなくなっている事を伝えた。
「あなたはネ、考えすぎるのよ。ホラ、ココの頭脳線が下がってる人は繊細でネ、お人よしで、夢見るユメ子ちゃんなの。でもネ、夢ばっかりじゃダメ。あなたはネ、頭がいいから考えすぎちゃうのよ。それが玉にキズなの。あなた、ホントは恋愛運、すごくいいのよ。今までコレって思った人射止めてきたでしょ。こっちから求めなくても向こうから来てくれるのよ。でもネあなたは、それをスグ腐らせちゃうの。手に入れてもそれに根が生えないの。いい事でも溜め込んで、溜め込むのはいいけど、それを生かさなきゃダメ。あなた、今年来年と運気が上がり出すから、ネ、その運気を、せっかくなんだから、生かさなきゃ。待ってるだけじゃなくてネ、自分から動かなきゃ。日記をつけてるっていうのはネ、とってもイイのよ。デモネ、今日の事書くのもいいけどネ、ホントにイイのはネあなた、これからの事を書いてみるの。今日起こった事書くより明日の事、これから起こる事書いてみるの。それでネ、それ、出来るようにネ、頑張ってみるの。出来なくても良いのよ、もし出来なかったら、どれだけ頑張ったか、書いてみて。無理しなくてもいいのよ。大丈夫、今のあなたなら意外と頑張れちゃうわよ。だから、明日の楽しいこと、書いてみて。あなた、もっと欲張っていいのよ。遠慮してるとどんどん運気だって逃げていっちゃうのヨ。」
そう言ってわたしから手を離したおばさんの手のひらに、黒い線で手相が書き足してあるのが見えた。とっさにわたしは、それを、見なかった振りをした。
今年の前半に運命の人は現れなかったけど、あの占い師のおばさんも今年来年と運気が上がってくると言っていた。雑誌の占いは当たっていたのかもしれない、それなのに、わたしは、何もしなかった。運命の王子様が部屋のチャイムを押してやってくるのをただ待っていただけのわたしの所には同窓会の誘いしか来なかった。もしかして、あの同窓会に参加していたら、恥ずかしがっていないで、かっこつけていないで、思いきって行っていれば、出会いがあったかもしれなかったのに、誰にも気付かれずにいきなりしあわせをつかみたかったわたしは、そんな小さなチャンスにはすがりたくなかった。
今年、来年。せっかく運気が上がってきているのに、今年も、もう半分過ぎてしまった。
じっと手相を見つめていると、だんだん目の焦点が合わなくなってくる。なんとかしないと、って、気持ちばかりがあせり出す。
あのおばさんが言っていたように、日記は続けることにした。でも、明日の事なんて、どうやって書いたらいいんだろう。明日の楽しいこと、なんて言っていたけど、明日なにかが起こる気がしない。わたしは明日何がしたいの?今まで待ってばかりだったわたしには、明日のわたしを想像出来ない。