ほんとうの日記
最初はわたしも疑われたけど、課のみんながわたしをかばってくれた。みんなはこの事件が発覚する以前から、彼とわたしの関係を知っていたみたいだった。彼のことを知る人たちは、わたしに同情してくれた。みんなはわたしが、彼に無理矢理付き合わされていると思っていた。わたしも彼と一緒に高い食事やホテルに行っていたのに、彼と一緒になってお金を使っていたのに、彼ひとりが悪者になり、わたしはまるで彼に連れ回されていた被害者みたいになった。別に嫌々彼と不倫していた訳じゃなかったのに、みんなはわたしが彼にレイプされていたみたいに扱った。
みんなは、課長の表面だけしか知らない。木崎さんのほんとうはやさしい面をわかってあげていたのは、わたしだけだった。
もうすぐ生まれると言っていた彼の子供はもう大きくなったのだろうか。あの後、奥さんとはうまくやっているのだろうか。社が離れると彼の噂も聞こえてこない。一度出張の時に彼を見かけたことがあったけど、やり手だった頃の彼の面影はなくなっていた。左遷されたその小さな会社の色に染まったのか、単に会社のお金が使えなくなったからなのか、以前の魅力ある彼ではなくなっていた。田舎の県立大出身のくせに、東京の有名大出身の社員なんかを根拠なく威圧していたあの頃の彼の態度と比べると、死んだも同然だった。相変わらず派手なスーツは着ていたけれど、その縞のスーツがよけいむなしく見えた。彼はあの一件ですべてを無くしたって、いつか部長が言っていたけれど、わたしはあれでよかったと思う。あのままでいたら、彼はいずれ行き詰まったと思うし、わたしも妊娠していたかもしれない。
彼には帰る所があった。これからは、しあわせな家庭を守ることだけを考えていけばいい。彼は、何も無くしていない。確かに彼が今まで会社で築き上げた信頼は無くしたけど、彼の人生すべてが無くなったわけではない。
彼と付き合っていた頃、彼はわたしにいろいろな話をしてくれた。自分が子供の頃裕福ではなく、アルバイトをしながら学費を稼いだ話、新聞配達で集金にまわっても、なかなか回収する事が出来ず、いざ払ってもらう時には、客は新聞代を、まるで彼の手が汚いかのように、なるべく触れないようにお金を彼の手のひらに落とす。昔はそんなもんだったよ、って話す彼の大きな手のひらには、その歳にしては多すぎるほどの皺があった。
彼はよくわたしに、「あの頃の俺があったから、今の俺があるんだ。」と言った。頑張れば、誰だってしあわせをつかめるんだって。
彼はその時、何かで落ち込んでいたわたしを勇気づけようとしてくれていたんだと思う。
「でも俺は、今の俺に満足なんかしてない。もっとやれる気がする。だからお前も諦めたりしちゃダメだ。頑張れば頑張るほど、その分しあわせもついてくるんだから。」
ひさしぶりに彼を見かけた日、わたしは、彼のその言葉を思い出した。
《しあわせは人の数だけあるって彼は言っていたけど、それは嘘。世界中のしあわせの数は決まっていて、その数はみんなの数よりも少ない。そこにはすべての人に行き渡るほどのしあわせは用意されていないから、それを受け取れない人もいる。やっとしあわせがやってきても、それに気がつかなかったり、自分から逃してしまったりして、せっかくの幸運を輝かせることが出来ない人もいるの。》
世の中には、両手からこぼれ落ちるほどのしあわせを手にしている人もいるのに、わたしの手は、いまだに何も捕まえたことがない。
この街はわたしには向いていないのかもしれない。この街のどこにもわたしのしあわせは落ちていない。でも、わたしはまだ、諦められない。このままじゃ、田舎にも帰れない。
小学校の卒業文集に、将来の夢は「お嫁さん」って書いた。その頃の将来がいったい何歳位のことなのかわからないけど、おそらく、今のわたしの年齢よりも、もっと若いイメージだったような気がする。すてきな男性と結婚をしていて、子供もいて、かわいいペットとかもいるような、そんな自分の未来を漠然と抱いていた。
過去には戻れない、そんなことはわかっている。でも、もしあの頃に戻れるなら、あの卒業文集の「将来の夢」を書き直したい。そして、あの頃のわたしに伝えたい。あなたは30歳を過ぎても結婚も出来ないの。それどころか、相手がいる人ばかり好きになるの、不倫ばかりなの。将来の夢に、「お嫁さん」なんて書いたら、その将来になった時、あなた自身が困ることになるのよ。同窓会の知らせが届いたって、ほんとはひさしぶりに行ってみたくたって、初恋の祐介くんに会ってみたくたって、いろいろ考えてみると、地元の子達はみんな結婚してるし、子供だっているって聞いてるし、そんな中にいまだ独身のあなたが行って、誰かが持ってきた卒業文集をみんなで見ることになる、それを考えると、不参加に○をして送り返すこともせずに、その手紙は届かなかったことにして、ただ捨ててしまうことになるの。だから、お願い、「お嫁さん」なんて書かないで。
この世界には、あの頃に思い描いていた将来の自分はどこにもいない。わたしは、あの頃のわたしが見ていた未来とは別の未来に来てしまった。わたしが行き着いた未来には、ここまで自分が歩んできたという実感がない。わたしはどうやって現在にたどりついたのだろう。小さい頃は、この歳になったら当然結婚しているんだと思っていた。子供もいて、もっと大人になってると思ってた。でも今、わたしがいる現在には、あの頃とあまり変わりない、学生の頃とまるで変わらない、大人になりきれないでいるわたしがひとりいる。
あの頃は、未来はずっと続いていくと思っていた。今、その頃の将来にきてみて、わたしは気づいた。
この将来には未来がない。わたしが行き着いた未来には未来がなかった。
会社の帰りにいつも立ち寄る駅ビルの中のペットショップ、一番端のショーウインドウの中にいるミニチュアダックスは、もうだいぶ大きくなっちゃっていて、なかなか買い手がつかない子だった。あの子はいつも古い小さなクッションに頭を乗っけてつまんなそうにしているのに、わたしが顔を見せるとしっぽを振って喜んで迎えてくれる。わたしがガラスに指をあてると、小さい鼻をクンクンつけてくる。会社でどんなに嫌なことがあっても、あの子の笑顔を見ると心が救われた。ショーウインドウのガラス越しだったけど、あの子とわたしは友達だった。誰にでもあいそを振りまく他の子たちはすぐに入れ替わっていくのに、わたしだけになついているあの子の柵にはいつまでも、売約済みの札はかからなかった。
ある日、仕事終わりにいつものようにそのペットショップに行くと、あの子の柵はからっぽだった。そんなことは今までなかった。昨日まで売約済みの札はかかっていなかったはずだから、誰かに買われていったのではない。お風呂に入れてもらっているにしても、外からでも見える店のシャンプー台には、何も乗っていなかった。もしかして病気にでもなったのかもしれないと思いながら、わたしはとっさに、もうひとつの《もしかして》には、気付かないふりをした。