ほんとうの日記
カーテンをそのままにして明かりをつけて、もう一度日記を開いてみる。最近お気に入りの《いい事》は、ずいぶん前のことだった。
毎日仕事もがんばって、しあわせになれるように努力しているつもりなのに、報われないわたしは、もうすぐ結婚する会社の同僚を心から祝えなかったり、友達の彼氏の話に素直に笑えなかったり、いつもしあわせがわたしだけをすり抜けていく気がする。わたしにくるはずだったしあわせが、わたしの指の間をすり抜けて、いつの間にか他の人のところにいってしまう。
日記から顔を上げ、もう一度団地の窓を見ると、さっきまでついていた明かりは消えていた。
あの駅のホームのおじさんのことを思い出した。
今、わたしの部屋の明かりをどこかで見ている人はいるのだろうか。
先週、仕事が終わって帰り支度をしていると、隣の机の後輩の女が、わたしの下で働いている曽根くんに飲みに誘われていた。わたしが立ち上がると、その女と目が合う。すぐ目をそらしたこの女は、わたしを気にしている。行きたければ行けばいいのに、誘われないわたしのことは気にしないで即OKすればいいのに。変に意識しだすと、そちら側を向けなくなってしまって、お疲れさま、と少し吃りながら早々にその場を後にした。
あの後輩は、わたしが以前、この会社の人間と不倫していたのを知っていると思う。他人の噂が好きなこの課の人たちのことだから、絶対聞いていないはずがない。知っているから、わたしに気を使う。それが証拠だ。ここではもう、彼らのような新鮮な恋愛は出来ない。
わたしは以前、同じ課の木崎という課長と不倫をしていた。飲みに誘われ、好きだと言われ、その日からずるずるとそういう関係になっていった。
彼はわたしの直属の上司で、入社してからずっと彼の下で働いてきた。押しの強いタイプで、入社当初は一番苦手な上司だった。彼は、わたしの話をいつも最後まで聞かず、わたしが言いたい事を最後まで言い切る前に自分の意見を入れてきて、「お前の話はわからない。」「でも、が多すぎる。」と一方的に話を打ち切った。わたしは、この人はマトモに他人と話が出来ない、相手の立場になって物を考える事の出来ない人なんだな、と諦めていた。いつも叱られてばかりいて、わたしとこの人とは相性が悪いんだと決めつけていた。だから、彼にはあまり自分の意見を主張せず、ただ受け流すだけにしておこうと思い始めた時、ある会議で彼を見直す機会があった。
プロジェクトが難航していて、彼が中心で押し進めてきた企画は会社にとってはリスクのある決断も必要だったのでなかなか賛同が得られず、彼はその会議で必死に他の上司たちを説得していた。いくら彼の押しが強くても、それだけでは部長の理解は得られず、このままではラチがあかないと判断した彼は、以前わたしが彼に提出したアイディアを、一応の打開策として提案した。あまり前向きな案ではなかったので、一応検討という事で、その会議はお開きとなったが、そのことを後で会議に出ていた同僚に聞いた時、わたしは驚いた。わたしの意見なんて半分も理解していないと思っていた彼が、わたしの提案を覚えていてくれて、それもそんな重要な会議でその意見を部下の意見として発言してくれたなんて、信じられなかった。彼は、「お前の言いたい事がわからない。」と、わたしに言いながら、実は理解してくれていたのだった。
それからは、わたしも彼への接し方を変えるようにした。まず、彼の話を最後まで聞き、それから自分なりに彼の考えに合わせた言い方で、わたしの意見を伝えるようにした。そうすると、彼も以前よりまともにわたしの意見に興味を持って聞いてくれるようになってきた。
その後も彼は相変わらず厳しかったけれど、厳しいなりにわたしを可愛がってくれるようになり、わたしも以前より苦手でなくなった。おとなしめな人間が多いうちの課の中では、思い切ったことを言う彼は浮いた存在だったけれど、何かの時には、他の社員たちよりも頼りになった。彼のアクの強さが苦手だと言う同僚も多かったけど、わたしを叱る時にはみんなの前ではなく、個人的に呼び出して注意してくれたり、叱られる側にも気を使うことの出来るやさしい面もあった。体育会系出身の彼は、課の親睦を深めることがこれからの仕事に重要だと信じていて、月に一回は「社会勉強にいくぞ!」とわたしたちを半ば強制的に彼の行きつけの飲み屋やバーに連れ行った。そこで彼は仕事の話よりも、彼の学生時代の武勇伝や、これからの日本のこと、彼の夢をわたしたちに熱く語ってくれた。わたしは彼を、自分のことを理解してくれている唯一の上司だと思っていたし、ある意味、彼には他人を引きつける魅力があった。
彼は、わたしが彼に憧れていることを知っていた。だから、課の中でも特にキレイでもないわたしのことを誘ってきたんだと思う。わたしは彼をひそかに想っていただけだった、会社の誰にも言っていなかった。お互いに惹かれ合ったのかも、と、はじめは考えたけど、彼はわたしの彼に対する態度から、わたしが好きなのを察した。しかも口が堅そうな女だった、だから彼もわたしのことを好きになった。だから、わたしを誘う時の彼はいつも、わたしが拒まないことに自信を持っているような態度だった。
わたしは彼のことが好きでずっと想っていたし、上司として尊敬もしていたけど、彼には家庭があるし、この想いは初めから成就しないものだと思っていた。誰にも言わなかったその想いは、わたしの日記の中だけの秘密だった。
それなのに、その秘密は、彼に知られてしまった。わたしが隠していたものを、彼は無理矢理こじ開けた。どうして、叶えてはいけない願いばかり、叶ってしまうのだろう。
外で二人きりで会うときの彼は優しかった。二人きりになると、わたしを下の名前で呼んでくれた。わたしも彼を役職ではなく、木崎さん、と呼んだ。彼は、わたしを一番に思ってくれた。一人暮らしのわたしの部屋に押し掛けようともしなかったし、たいていは、わたしが泊まったこともないような高いホテルを予約してくれた。ホテルの部屋に入ると、木崎さんは少し乱暴になり、わたしを太い腕で抱き寄せて、少し痛い時もあったけど、昼間の課長からは想像もできないような言葉を、耳元でささやいてくれた。
「お前はかわいい。」「いつまでも大切にする。」少年みたいな目をして、そんなことを呟く彼に、わたしはただ、うなずいていた。
その時課長の奥さんは妊娠中で、春には子供が生まれる予定だった。家庭を壊してまでわたしと一緒になるつもりなんかないことくらい、甘い言葉を聞く前からわかっていた。
関係は彼が会社を移動させられるまで続いた。彼は他の課の女子社員にも手を付けていた。彼が別れ話を持ちかけたのがきっかけで、その女が会社と奥さんにチクり、すべてがバレた。女がすでに辞めていたので、表沙汰にはならなかったが、彼は地方のどうでもいい関連会社に転勤していった。彼には横領の噂もあったけど、調べてみると多少の飲み代を経費で落としていただけだった。しかし社内不倫と重なると大事になりかねないので、会社は彼の転勤を含めて内々で処理したみたいだった。