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川の流れの、その音に寄せ

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 しばらくして、氷音の泣き声が哄笑に変わった。三人はぎょっとした。氷音はそれでも顔をあげることはなく、どんな表情をしているのかわからない。
「あはは、はは! わかんない……もうわかんない! 私は鳥籠ちゃんになりたかったんじゃない。神林氷音をやめたかったんじゃない。あはは! 馬鹿みたい。馬鹿みたい! どっちだってよかった。どっちだって、おんなじ……」
 そしてゆらりと、体を起こす。そこには何かに疲れ切った表情があった。その瞳は何も映そうとしていなかった。千波は困惑した。自分の知っている氷音ではなかった。リカが苛立ったように氷音の肩をつかむ。
「ねえ。何か事情があるならちゃんと言って。聞くわ。だから私たちを置いてきぼりにしたまま諦めて自己完結するのやめてよ」
「……ふふ。鳥籠ちゃん、お母さんにそっくり……」
 虚ろな顔で氷音が笑った。
「はあ? 私のお母さんのことなんか、覚えてないでしょ。言っとくけど私とは似ても似つかな」「私の、だよ」
 リカの言葉を遮ったその声は、氷音のものとは思えないほど低く暗かった。何かに勘付いてしまった聖がリカと氷音を引き離す。千波はきゅっと口を結んだ。リカのカクテルがカランと音を立てた。
「神林さん。もしかして、君は……」



 その日はとても忙しかったのだろう。
 小さな産婦人科だった。人手も足りていなかった。誰がミスをしたのかはわからない。ただ、誰も同僚に気をまわしていられるほど暇でなかった。
 砂倉鳥籠は四月一日生まれ。神林氷音は四月二日生まれ。二人は学年を異にすることとなったが、実際に生まれた時間はほんの数十分の違いだった。お互いの母親はこの病院で知り合い、子どもが生まれた後もとても仲がよかった。どちらとも一人目の子であったこともあり、困ったことがあればすぐに相談する関係だった。
 おかしいな、と最初に思い始めたのは氷音の母親だった。娘はどうも自分とも夫とも似ていなかった。小さい時なんてこんなものだ、だんだん顔つきも変わってくるに違いない。そう思い込もうとしていたが、娘と似ているのはむしろ自分ではなく鳥籠の母親だということに不吉な予感がした。確かめるのが怖くて、血液検査ができなかった。
 数年が経ち、ひとつ学年上の鳥籠が先に保育園に入って、そちらの母親は仕事を再開させた。会うことはなかなか難しくなり、たまに電話やメールのやりとりをするくらいになった。『もしかして』という疑問もだんだんと薄れていった。しかしまた顔を合わせることになるのには抵抗があった。氷音は少し離れた幼稚園に入園させたのだった。
 しかし、何よりも恐ろしいのは『何も知らない他人』である。
 誰が言い出したのかはわからない。氷音の母親を目の敵にしている誰かが皮肉のつもりで噂を広めたのかもしれない。
「氷音ちゃんって、氷音川からとった名前なんですってね。ひょっとして、氷音川で拾った子なのだったりして。だって、ほらあの子……お母様にもお父様にも似てなくて……」
 地域の噂は速かった。それはすぐに砂倉家の耳にも入った。鳥籠の母親は噂を聞いた瞬間に、全てを理解してしまった。考えたことがないわけではなかった。鳥籠もまた、自分にも夫にも似ていなかった。ただ周りに変に騒ぎ立てられることがなかったのは、鳥籠の母自身が仕事をしていてあまり保護者の集まりに顔を出せなかったのと、父親が人前に出ない人だったからだ。
 鳥籠の母はすぐにうまく理由をつけて、遠くへ引っ越すよう夫にせがんだ。氷音のそばにいるのは――氷音を見て親に似ていないと笑う人たちのそばに自分がいるのは、あまりにも危険だった。自分にとっては今ここにいる砂倉鳥籠が娘だ。それがたとえ真実であろうとも、心ない噂に巻き込まれて、娘に嫌な思いをさせたくない。自分とも夫とも性格の違う娘だけれど、自分が育ててきた自分の娘だ。何と言われようとも。
 氷音の母は、そうやって割り切ることができなかった。悪い予感はほとんど確信に変わってしまった。その途端、娘を自分の分身として愛することができなくなってしまった。少しでも『神林氷音』らしくさせようと、自分が幼い頃から続けていた習い事をたくさんさせた。少しも上達しない娘を見て、やはり自分の子ではないのだと思った。もはや、かわいいと思えなくなってしまっていた。
「……お母さん」
 氷音は中学二年生になった。
 噂は都市伝説のような形で未だ語り継がれていた。確かに自分は母親にも父親にも似ていない、そう思うと否定することもできなかった。それでも信じていたかった氷音は母と呼ぶと不機嫌になる母親を、あえてそう呼び続けていた。
「お母さんって呼ぶなって、言ってるでしょ」
 その日母親は少し、お酒を飲んでいるようだった。
「あのね、美術の宿題で、私が生まれた時の話を聞いて絵にするっていうのがあって……」
「あんたなんか生んでない!」
 直後に母親は、あっという顔をした。氷音は固まっていた。噂は本当だったのだと、自分は拾われた子だったのだと思った。その場に崩れ落ちる。白くて細い手足はガクガクと震えていた。母は観念したように溜息をついた。そして真実を告げた。
 ――その時氷音は数年ぶりに、砂倉鳥籠の名前を聞いた。
 それから母は彼女なりに、つとめて氷音を氷音と認めるようになった。氷音はいい子だった。母親の理想の娘にはなれなくても、せめて母親にとって一般的に理想的な娘ではあろうとした。様々な場面で家族をたすけ、できるだけお金も手間もかからない子であろうとした。
 それでもお互い、神経をすり減らしている気はしていた。笑顔がはりついて頬の筋肉が硬直した。何も知らず、勘の鈍い父親は二人がやっと仲良くなったと喜んだが、それがなおさら母娘の精神に負荷をかけた。食欲不振や睡眠障害、生理不順は当たり前だった。家族でいると、吐き気もよく催した。このままではいけないと考えた氷音は、地元から遠い私立の高校に一人暮らしで通うことを申し出た。悲しがったのは父親だけだった。母はあなたの好きなようになさいと言って、安堵の息をついた。
 氷音の選んだ高校の近くに、学校こそ違えど、すぐ近くに鳥籠がいるとは、その時の彼女には知る由もなかったのだった。
「……」
 想像もしていなかった話に、リカは言葉を失っていた。
 千波も聖も、一言も発さずに難しい顔をしている。ビールはとうに泡のない液体になってしまっていた。誰も、何も言わなかった。言うことができなかった。
「……これが……私の人生……」
 馬鹿みたいだよね、と氷音は苦笑した。壁によりかかって、泣きはらした瞼をそっと閉じる。どこかすっきりしたようにも見えた。今までずっとずっと、誰にも言わずに抱え込んできたのだ。気付いてあげられなかった自分が不甲斐ない、と千波は思った。
「これから……どうして生きていけばいいのかな……」
 目を閉じた氷音がそのまま消えてしまいそうで、千波は思わず身を乗り出しその手をとった。驚いた顔をして目を開けた氷音は、しばらく千波を見つめていたが、やがて悲しげに笑った。
「千波ちゃん。私のこと、心配してここまで来てくれたんだよね。ごめんね……」
「……氷音」