川の流れの、その音に寄せ
すっかり仲良くなっている二人を交互に見て、聖は複雑そうな顔をした。こんな光景は夢にも見なかったに違いない。
「なによ」
「え、別に……ただ、面白いなーって思って。二人ともついさっき会ったばっかりなのに」
頭を掻いて苦笑すると、つまみを注文しようと画面上のページをめくる。リカはそれこそ心外だというふうに頬杖をついた。
「そうは言うけどね、無関係ってわけでもないわ。私、千波ちゃんのお店で撮ってもらった写真で養成所入れたんだから」
「ああ……そっか、そうだったね」
次はあなたが撮ってね、と言ってリカが笑った。千波はなんだか照れくさくなって鼻先を掻く。
ふと、氷音と一緒にリカの写真を見たときのことを思い出した。あの時感じた違和感はやはり間違っていなかったのだ。リカは氷音のことを知っていた。氷音もリカのことを知っていたのだ。あの悲しげな表情には母親同士の隔絶も何か関係があるのかもしれない。
「あの、リカさん」
そのことを告げようと口を開いた瞬間、テーブルと通路を隔てていたのれんが捲られた。頼んだ飲み物が運ばれてきたようだった。受け取ろうとして顔を向け、千波は思わず叫びそうになった。
「――氷音!」
そこにいたのは間違いなく、氷音だった。
髪を伸ばして茶色く染めている。ふわふわのウェーブをかけてお洒落なピアスをしている。化粧をして華やかな顔立ちになっているが、一目見てわかる。紛れもなく彼女は氷音だった。
「……ちな、み、ちゃん」
氷音が掠れた声を漏らす。せっかく運んできたものを置くのも忘れて一歩、二歩と後ずさった。状況が呑み込めずぽかんとしていたリカが、その時あっと声をあげた。
「あなたが『砂倉鳥籠』……?」
千波は目を見開いた。氷音の胸元には確かに砂倉と書いたネームプレートがあった。その場から逃げ出そうとした氷音を聖がつかまえる。とりあえずお盆をテーブルに置いて、彼女を隣に座らせた。
「……」
氷音は俯いて黙ったままだった。
「……氷音」
千波が声をかけると、氷音はびくっと肩を震わせる。どうしてこんなことになっているのか。怯えさせるために探していたわけではないのに。
「どういうことか……説明してくれる?」
続きを口にしたのはリカだった。恐る恐る顔をあげた氷音が、リカを見てじんわりと目に涙を溜める。「とりかごちゃん」と震える声で呟いた。
「そう。私が砂倉鳥籠。知ってるでしょ……氷音ちゃん……」
「……ごめんなさい……ごめんね、とりかごちゃん……」
ぼろぼろと涙を零して、氷音は顔を手で覆った。肩を震わせて嗚咽を漏らす。隣で困ったような顔をした聖が背をさすってやっていた。
千波はその様子を茫然として見ていた。まだ理解しきれていなかった。探していた氷音は地元でも大学の近くでもなくわざわざ東京の居酒屋でアルバイトをしていて、そして砂倉鳥籠の名を偽っていた。……一体何のために?
聖は一人冷静だった。とにかく氷音がバイト中では埒があかない。同行して店長の元へ行き、何やかんやと理由をつけて早退させてきた。氷音の分のお茶を頼んで奥の席に座らせ、しっかり逃がさない体勢だ。
「……どこから話せば……いいのかな……」
覚悟を決めた氷音が手の甲で涙を拭い、小さく呟いた。まさか千波ちゃんと鳥籠ちゃんが並んでる姿を見る日が来るとは思わなかったよ、と言って眉を下げ笑う。
「私ね……鳥籠ちゃんが羨ましかった……」
友達を多く作りなさい。誰も彼も振り返る光を持つ人になりなさい。親の描く理想的な人間には、自分は程遠かった。母の得意だったピアノを習わされたし、父の好きだったスイミングを習わされたけれどどれも自分には合わなかった。親の理想は自分には体現することができなかった。ひとつだってできなかった。近くの高校に鳥籠が通っていることを知って、噂を聞いて、写真を見て、自分の親が自分に求めたものを鳥籠ならすべて持っていることに気付いた。羨ましかった。悔しかった。ああしなさいこうしなさいと言われてもそうなれなかった自分。その言葉を聞いていないはずなのに、いつのまにかそれを手に入れている彼女。
「鳥籠ちゃんは私の……ううん、お母さんの望んだ神林氷音そのもので……それが辛くて悲しかった……」
だけど、それ以上に悲しかったのは。
「鳥籠ちゃんは鳥籠ちゃんの名前をもらって、砂倉鳥籠で生きているのに、素敵な名前なのに、それなのにどうして、その名前を隠そうとするの……?」
辛くて悲しくて羨ましくて、贅沢な鳥籠が許せなかった。鳥籠のお母さんがかわいそうだと思った。私は砂倉鳥籠にはなれないのに、鳥籠は――欲しいものを全部持っている鳥籠は、その権利さえ棄てようとしているのだ。
「高校を出て、誰も知らない大学に行って……そしたらこの気持ちもなくなるかなって……何も考えないで生きていけるかなって、でも、ダメだった……。私、どうしても鳥籠ちゃんが許せなかった。鳥籠ちゃんが鳥籠ちゃんでいたくないなら、私が代わりに鳥籠ちゃんになるのにって思った。だから、大学やめて、もっともっと、私のことも鳥籠ちゃんのことも知らない場所に行こうって……そしたら鳥籠ちゃんになれるかなって……」
「氷音ちゃん……」
リカは困惑していた。全く理解ができなかった。氷音の親のことなんか会ったことも覚えていないし、どうして氷音が自分にそこまで執着しているのかわからなかった。
「あのね。氷音ちゃんの気持ち、全然わかんない。けど、一つだけ、これだけは言えるわ。ねえ、私はなにも――砂倉鳥籠でいることが嫌なわけじゃないよ……」
「……嘘。だって! だって鳥籠ちゃん、せっかくお母さんが鳥籠ちゃんってつけてあげたのに、リカって……!」
「……確かに私には、似合わないと思うわ。氷音ちゃんがお母さんの理想になれなかったように、私もお母さんの理想とは程遠い。お母さんは小鳥のように、慎ましやかで、優しくて、みんなを癒してあげられるような、そんな子に育ってほしいって思って鳥籠ってつけたんだろうけど、私、見ての通りそういうタイプじゃないから……だからリカって名乗ってた。でも、でも私は砂倉鳥籠に生まれたこと、誇りに思ってる! あなたみたいに、自分を棄てて別人になろうなんて、考えたことなんかない。氷音ちゃんのお母さんこそ、かわいそうじゃないの!」
氷音は絶句した。言い返す言葉がなかった。ただ涙を溢れさせてテーブルに伏せた。そして、声をあげて泣いた。
のれんで仕切られた半個室の空間には嗚咽だけが響いていた。遠くからどこかの大学のサークルが騒いでいる声が聞こえてくる。忙しそうな足音。
「私だって……私だってそう思いたかった……知らなければ、頑張れたのに……。お母さんの理想の娘にはなれなくても、私はお母さんの娘だって、言えたのに……」
「……氷音……?」
どれくらい時間が経ったのかわからない。氷音の言葉に不穏なものを感じとって千波は声をかけた。氷音は顔をあげなかった。
「どういう、こと?」
リカに問いかけても、彼女も事が分かっていないようだった。明らかに、ただの妬みではない何かがあった。そもそも、普通は自分の理想を体現している人間がいたからといってこんなことになるはずはないのだ。
作品名:川の流れの、その音に寄せ 作家名:大文藝帝國