川の流れの、その音に寄せ
名を呼んで後に続く言葉が出てこなかった。どうしろとも言えなかった。ただ、謝るのは自分の方だと首を振った。
「鳥籠ちゃん……鳥籠ちゃんには、迷惑かけないようにって思って生きてきたのに……結局私、巻きこんじゃった。本当にごめん」
「――馬鹿。馬鹿馬鹿、大馬鹿っ!」
リカは氷が溶けてぬるくなったカクテルを一気に飲み干して、大声を出した。
「私は当事者よ。巻き込んでくれてよかった、相談してくれればよかったのに……。私、私だけ何も知らないで呑気にやって。悔しいじゃない! 私が間抜けみたいじゃないそんなの!」
そして氷音をぎゅうと抱きしめる。氷音はその背を抱き返して、再び泣きそうな顔をした。とりかごちゃん、と何度もその名を呼んだ。
「……背負ってくわよ、私も一緒に。私はあなたで、あなたは私なんだから」
「……鳥籠ちゃん……。うん……ありがとう……」
ラストオーダーです、と空気の読めない店員がのれんをくぐって来た。すぐに聖があたたかいお茶を人数分頼んで追い返す。思ったより長居してしまった。千波は昨晩――ほぼ今朝方の話になるが、結局氷音のことを考えていてドライブから帰ったあとも眠れなかったのだった。明日の授業は睡眠時間に充てられるに違いない。
「どうするの、氷音はこれから。大学やめちゃったんでしょ?」
ふと千波が問いかけると、溜めこんできたものを吐き出してすっきりした表情の氷音が丸い目を細めて笑った。
「うん……どうしよう。もうここにはいられないから、別のバイト探して……私も鳥籠ちゃんみたいに夢、見つけたいかも」
「氷音ちゃん、歌はどう? うちのお母さん、私に本当は女優じゃなくて歌手になってほしかったみたい。昔大きな合唱団にいたって」
「歌。いいじゃん氷音、ぴったりだよ」
「ええ、そんな、私には無理だよ……でも、いいね、こういうの」
三人で姦しく騒ぐ様子を聖は安心した様子で眺めていた。すっかり孫の成長を見守るおじいちゃんのような心持でいたので、いきなりリカに腕を掴まれて思わず声をあげた。
「聖! 私は女優になるわよ。大スターになる。で、人気絶頂期であなたと結婚・引退! って週刊誌を騒がしてやるのが夢! 聖は嫌? 私のこと、好きじゃない?」
「え、えっ?」
これには千波も氷音も驚いた。勢いよくまくしたてたリカは、言ってやったというような顔をしてはいるが、耳の先まで真っ赤だ。このまま勢いに任せて、この機会に残っているわだかまりは全て解消してやろうという意気込みだった。
「……リカ」
しばらく呆然としていた聖が、困ったように呟いてからはにかんだ。なんだか二人とも画になってしまって、まるで映画のワンシーンを見ているようだ。
千波はお金を置いて、氷音と一緒に先に店を出た。ここで気をきかせてやるくらいしないと。今回一番の功労者は聖である。
彼の車があてにならないので、今夜はカラオケにでも泊まって始発の電車で帰ることになりそうだ。授業は二限からだから、一度家に戻ってもギリギリ間に合うだろう。夜風を体に受けつつ、氷音とあたりを歩いた。
「……実はね、さっきの話。ひとつだけ嘘があるんだ」
不意に一歩後ろを歩いていた氷音が呟いた。肩越しに振り返ると、言葉とは裏腹に恥ずかしげな顔をしている。
「嘘?」
「私、ほんとは鳥籠ちゃんがお母さんの理想だったから、そうなりたかったわけじゃないの」
その顔を見られたくないのか、彼女は俯いてそそくさと千波の前を行ってしまった。追いかけて顔を覗き込む。――泣いていなくて安心した。
「……もちろん全くってわけじゃないんだけど。でも、もういっこ、あって」
ちらりと、氷音が千波の顔を見た。言ってもいい? と眼で訴えている。真剣なようにも見えるし、これから冗談を言うときの顔にも見える。千波は頷いてガードレールに腰かけた。
「どーぞ」
「私……名空君のこと、好きだったんだ」
「え」
思いがけない言葉が飛び出てきて、千波は素っ頓狂な声をあげた。どうして奴ばかりがモテるのだ。
「クラスが一緒ってだけで、全然話したこともなかったし、千波ちゃんの話で聞くことの方が多いくらいだったんだけど、一回ね、具合悪くなったときに保健室連れて行ってくれたことがあって」
「何それ……初耳」
「言ってないもん」
ふふ。と笑う。そこには先ほどまでの暗くて屈折した表情はもう全くなかった。
「でも、鳥籠ちゃんと付き合ってるーって噂を聞いて、ああ、なんだか、本当は私が鳥籠ちゃんで、鳥籠ちゃんが私だったのに、って思っちゃって。……変だよね、鳥籠ちゃんの名前を持っていたとして、私はあんな素敵な子にはなれないのに」
噂に左右される人生だなあ。そう付け加えて、しかし吹っ切れた様子で夜空を仰ぐ。――噂によく聞く東京の割には、思ったよりも星が多い。
「……もう、隠し事はなしだよ」
「うん……もう、しないよ」
穏やかな表情をしていた。こんな顔を見るのは初めてかもしれなかった。神々しい、とさえ思った。氷音川の氷音。体中を清めていくように響くあの音が耳に蘇る。きっと、最初は間違いだったとしても、間違いなく氷音は氷音だし鳥籠は鳥籠なのだ。
「でも、今の話は名空君と鳥籠ちゃんには内緒ね」
「うーん。どうしよっかなあ」
意地の悪い声で茶化して、千波は歯を見せ笑った。氷音も笑う。
内緒にするよ、約束。そう言い直して小指を差し出す。小学生がするような指切りをした。
その瞬間ぐう、と二人の腹の虫が声をあげた。そういえば、ほとんど料理に手をつけなかった。二人は顔を見合わせて笑う。
「コンビニ行こうか」
「そうだね」
どこか打ち解けきれなかった高校三年間分、いや、まだ出会っていなかったそれまでの分も全部語り明かしてわかりあおう。きっとこれから、本当の友人になれるのだと。そんな予感がした。
作品名:川の流れの、その音に寄せ 作家名:大文藝帝國