アシタのソラ
スズメの鳴く声が遠くの方から聞こえてくる。朝が来た。トイレの前に座り込んだまま、気付くと朝を迎えていた。時計を見ると、今日も五時。こんな時まで五時に起きている自分がばかばかしすぎて笑えてくる。もう一度家中を探し、名前を呼んだけれど、やっぱり彼の姿はどこにもない。のそのそと歩きながらリビングに入ると、彼のギターも無いことに気が付いた。他の家具類はさすがに置きっぱなしだが、ギターが無い。もしかしたら、またどこかで歌っているのかもしれない。
もしかして、公園? だけど、あんなことを言ってしまった後にのこのこと姿を現したところで、一体どうなるというんだ。きっと嫌われたんだ。だからここにいないんだ。当たり前だ。わたしが嫌われるのは、当たり前だ。それに、わたしなんかのためにここで無駄な力を使うより、他でのびのびと暮らしたほうが絶対彼にとっていいはずだ。わたしなんかに気を遣っても、無意味だもの。無意味なものに何をしたって、無意味だもの。
いつもの生活に戻っただけ。今まで通り一人で生きていけばいいんだから。そうすれば、変な買い物に付き合わされなくて済むし、エアコンが付けられないくらいで、罪悪感を覚える必要もないもの。羨ましさに、自分の惨めさに、気付かされることもない。そう、一人でいいの。わたしは初めから一人なんだから。
そう思い直し、わたしはベッドにもぐった。どんなに息を整えようとしても、整えることができない。苦しい。いや、苦しいわけがない。わたしに苦しいなんて感じる資格などない。だから苦しくない。それなのに、肺が、心臓が、痛い。息がうまくできない。
何をいい子ぶってるんだ。自分が全て悪いくせに、苦しいふりをして。息がうまくできないなんて嘘。演技だ。お前は嫌われて当たり前なんだから、当たり前のことが当たり前に起きただけなんだから、どこにも苦しみなんてないはずだ。お前は初めからいらない人間なんだから、あの男にとってもいらない人間だったに決まってるだろう。分かってるよ、そんなの。分かってるよ・・・・・・
夜になる頃には、部屋の中はぐちゃぐちゃに散らかり、かろうじて足の踏み場があるくらいだった。そして朝になると、部屋はもう足の踏み場などどこにもないほどに散らかり、ベッドから出る気力も無くなった。そして二日間、ベッドから出ずに過ごした。何も食べず、何も飲まず、一度だけどうしてもトイレに立った以外、ひたすらベッドの中で過ごした。いや、過ごす、という言葉はきっと適当ではない。無駄な時間を垂れ流した、が適当だろう。
ぼんやりと目の前に広がる物が散乱した風景を見渡すと、頭の中に尖った風が吹いた。風が吹くごとに、わたしの気持ちや思考を少しずつ削り去っていくようだった。その度に、どんどん空洞が増えていく。脳みそが削られて、穴になる。無になる。
このまま、このままわたしは消えてしまうのだろうか。全部風に削られて、無くなってしまうのだろうか。ああそうだ。無くなってしまえばいい。消えてしまえばいい。消えたところで、誰も悲しみはしない。誰も気付きもしない。全部無くなってしまえばいい。わたしなんか。わたしなんか、このまま死ねばいい。
「わたしなんかなんて言葉、使うなよ」
わたしは、はっ、として辺りを見回した。声が聞こえる。翔太の声が聞こえる。だけど、誰もいない。わたしの部屋には、誰もいない。ベッドからフラフラと起き上がり、リビングや翔太の部屋を覗いてみた。お風呂場や使われていない部屋も覗いてみた。何度も行ったり来たりを繰り返して覗いてみた。何かに急かされるように、何度も、何度も。だけど、やっぱり誰もいない。わたしの家には、誰もいない。わたしの足音と、呼吸と、唾を飲み込む音しか聞こえない。何の気配もない。
いつも、誰もいなかったはずだ。それが当たり前のはずだ。わたしから発せられる以外の音など、気配など、無かったはずだ。この家に、他人がいたことなんてあったろうか。初めから無かったのではないか。そうだ、あれはきっと夢だったんだ。わたしは長い夢を見ていたんだ。温かな夢を見ていたんだ。夢を・・・・・・・・・
ではこのリビングに置かれたテーブルは何だ? 椅子は何だ? 大きな部屋の家具は何だ? 百円ショップで買ったあの食器は何だ? その食器に乗せられたフルーツは何だ? この腕にほんの少しだけ付いた肉は何だ?
夢ではない。現実に、彼はここにいて、そしていなくなった。脳みそが削られて穴になったのも、現実だ。この無も、現実だ。
こんなにもはっきりと、現実というものを直視したことが今までにあったろうか。受け入れがたい現実を、見つめたことがあったろうか。きっと、無い。見つめたことなど、無い。見つめようとしたことすら、無い。わたしはいらない子だから仕方ないとか、生きるも死ぬのも嫌だとか、そう言って、目を背け、何もしないでいることがまるで現実を受け止めようとして受け止めることができなかった努力の後のように振舞っていた。初めから、何の努力もせず、何も見ようとせず、受け入れようともしなかった。
もしかしたら、今までのわたしでは、それが精一杯だったのかもしれない。それ以上は無理だったのかもしれない。だけど、今はどうだ。今までとは違う。確実に違う。それは、彼と過ごした分だけ、違う。わたしは、今度は自ら動かなければならない。エアコンが付けられなかった時とは違うはずだ。何故なら今、わたしは動かなければならないと思い、今までとは違うと信じているからだ。それは全て、彼の行動が、言動がもたらしたものだ。だからわたしは彼に、翔太に会わなければ。いや、会わなければ、ではない。会いたい。そう。会いたい。
わたしは急いで靴を履き、彼と出会った公園へ走った。思い切り足と手を動かして、ぎこちなく走った。筋力も持久力も無いわたしは少し走っただけで頭がぐらぐらになる。朝の爽やかな道路で何度も吐きながら、急いで公園へ向かった。太陽は半分くらい顔を出し、空は薄い水の膜で覆われたような透き通った色をしていた。今が朝なのだと、走りながら気が付いた。だけど、今はそんなことは関係ない。
公園の入り口まで来ると、わたしの足はガクガクと震えだした。こんなに走ったのは数年ぶりだったのと、ベンチでギターを抱えながら眠る翔太の姿を見つけたのとが相まって、足の震えが止まらなかった。その足で、ゆらゆらと歩きながら彼の側へ寄った。彼まであと一メートルくらいのところにくると、彼はふっと目を覚まし、おはよう、と何事も無かったかのように言った。やっぱり屈託の無い声だった。
「おはよう」
わたしもなるべく優しくそう言い、翔太の隣にゆっくりと腰掛けた。
「・・・・・・寂しい思いさせて、ごめん」
翔太は本当に申し訳なさそうにそう言い、自分の目頭に手をやった。
「前住んでた部屋に泊まってたんだ」
「うん、それなら、よかった」
公園の木々は微かに揺らめき、太陽の光を葉と葉の間に煌めかせている。少し乾燥した清々しい朝の空気に触れると、少しだけ素直になれる気がした。
「ごめんなさい」
わたしが小さな声で謝ると、翔太はわたしの頭をくしゃっと撫でた。
「今日何曜日か知ってる?」