アシタのソラ
翔太のいきなりの質問に、わたしは、知らない、と答えた。咄嗟にその単語しか出てこなかった。
「今日は木曜だよ。だから、ここで歌わなきゃ」
彼の言葉と同時に、さらさらと風の音が聴こえた。木曜日。すっかり、頭から抜け落ちていた。今日が木曜だということも、木曜に彼が歌を歌っていたことも。
わたしは何か答えたいと思ったが、何も答えることが出来なかった。言葉が、喉に詰まって、外に出られない。出られないまま、風に紛れて飛んでいってしまった。上唇と下唇が、アロンアルファでくっ付けられたみたいに離れない。なんて意気地が無いんだろう。
数秒か数分の沈黙の後、翔太はギターをぎゅっと抱えながらゆっくりと口を開いた。
「俺の母さんは病気がちで、ほとんど寝たきりだったんだ・・・父さんは忙しい人であまり家にいなかった。だから、掃除も洗濯も料理も、ほとんど俺がやってたんだよ。母さんはいつも俺に謝ってた。何もできていないお母さんでごめんねって。だけど、それが嫌だった。謝られるのが、嫌だった。俺は母さんが大好きだから、少しでも力になりたかっただけなんだ」
彼のギターを握る手が、心なしか一瞬震えたように見えた。
「歌手になるっていったって、そんなのなれるか分かんないし、母さんを助けるためには定時で働いてきちんと給料が貰える仕事に就かなきゃって思って・・・・・・それで諦めたんだ。
元気になって欲しくて・・・・・・だけど、二年前に、天国へ行っちゃった」
熱い何かが喉と鼻を塞いだ。息が詰まりそうになる。
「だから、こうして歌ってるんだ。空の上の天国にいる母さんに届きますようにって」
頬が震えて、目の奥が熱くなった。いつもより熱い涙が、両目からぽろぽろこぼれ落ちた。
「初めて亜紀ちゃんを見たとき、何となく寂しそうで、母さんに似てるって思ったんだ。その小さくて痩せたところも。だから、余計放っておけなかったのかもしれない。勝手なことして、ごめんね」
わたしは首を大きく横に振った。それから、ギターを握る彼の手を、そっと掴んだ。
ありがとう、という気持ちと単語が何度も心の中で生まれ、喉までやってきては詰まって消える。それを何度も繰り返した。だから、彼の手を、今度は強く握った。すると彼は、またくしゃっと頭を撫でてくれた。
温かい熱が、頭のてっぺんに伝わる。それは少しずつ少しずつ下へ進み、体全部を包み込み、わたしの中の何かを溶かした。それは喉を詰まらせていたものも、心を詰まらせていたものも、きれいに溶かした。
「あり・・・がとう・・・・・・」
小さく口を動かしてそう言うと、彼は、うん、と言って優しく頷いた。それからわたしは、あの家のことと、分裂した自分のことをゆっくりと話した。うまく説明できている自信はなかったけれど、わたしなりに感じたことや考えたことを、精一杯正直に話した。彼は、黙って頷いてくれた。そしてまた、頭を撫でてくれた。
「やっぱり亜紀ちゃんは、寂しいんだよ」
「うん・・・・・・そう、かもしれない」
何故だか今、とても素直になれる。彼が素直に自分の話しをしてくれたからだろうか。
「帰ろうか、あの家へ」
「・・・・・・うん」
ふわりと優しい風がわたし達の前を通り過ぎた。
「もう、一人じゃないよ。いらない子じゃない。俺が亜紀ちゃんのこと必要とするんだから」
「うん・・・・・・ありがとう」
翔太は子供のような屈託のない笑顔を振りまくけれど、その中にしっかりとした芯がいつも垣間見えていた。今初めてその芯を確認し、それがまっすぐな彼を作っているのだと知った。そしてそれが、彼の強さなのだと気付いた。
太陽が徐々に大きくなり、白い光が前方からわたし達を照らした。眩しくて前がよく見えない。わたしと翔太はその光の中で手を繋ぎ、ゆっくりと歩きだした。こんなに心が安心できたのは、生まれて初めてだ。まだまだわたしの中には分裂した自分がいる。だけれど、そんな自分に打ちのめされているだけはダメだ。
そうだ、帰ったら、お風呂に入ろう。それから、部屋を掃除しよう。
「ねぇ、翔太」
「なに?」
まだ人通りのほとんどない道路でわたしはお願いをした。
「金曜の夜、一曲目に歌ってたやつを今ここで歌ってよ」
「ここで?ギター弾けないよ?」
「いいの。歌だけでいいから。お願い」
すると彼は、青空のような突き抜けた声を、朝の光にかざすように歌った。本当は隠れて聴いていたこの曲が一番気に入っていたのだ。
彼の声は空の深いところに溶け込んだ。すると、空の色が一層透き通る青に見えた気がした。