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アシタのソラ

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 わたしに巻き添えをくらったはずの彼は、帰りがけにたまたま見つけた百円ショップで食器を買い、何故だかそれで満足した顔をしている。意味の分からない男だ。わたしに腹が立たないのだろうか。しかも、
「安くて可愛い食器が買えてよかった」
 なんて言う始末だ。
 大皿三枚と小皿四枚、茶碗とお椀を二枚ずつ、計千百円で今日の買い物を済ませ、家へ戻った。靴を脱ぐなりわたしは部屋に閉じこもり、その日はトイレ以外で部屋から出ることはなかった。何故だか無性に腹が立った。あまりにお気楽な翔太に。いや、違う。あまりに心の狭いわたしに。彼に何も返せないわたしに。腹が立ちすぎて、嫌になった。そして、腹を立てることも、嫌になった。でも、腹を立てることを嫌になってる自分が、一番嫌になる。なんと愚か者なのだ、自分。

 それから二日間は一言も翔太と口を聞かず、無視しまくった。自分勝手な女だ、わたしは。しかし三日目に、キッチンにゴキブリが出てしまったため、わたしは翔太を大声で呼ぶ破目になった。ゴキブリは苦手を通り越して嫌悪感を覚える。あの独特にテカッた茶色いボディに長い触角。それに何だ、あの奇妙な素早さは。無理だ。太刀打ちできるわけがない。
 しかし翔太は雑誌を丸めた棒で一発、スコーンとゴキブリを叩き潰し、テキパキとトイレに流した。初めて彼に勇敢さを覚え、わたしは心の底から、ありがとう、と言った。その様子が可笑しかったらしく、彼は笑い、わたしもつられて笑った。彼はわたしが無視していたことなど全く気にもとめていない様子だ。わたしは少し恥ずかしくなり、もう一度、ありがとう、と言ってから部屋に入ってテレビのチャンネルを回した。しかし全く落ち着かず、やはりテレビは一分と持たなかった。

 
 薄くてぬるい水滴が全身にびっちりとこびりついているような感触が気持ち悪くて、いつもより少し早く目が覚めた。
 今日は雨だ。今年の梅雨は雨が少なく、こんな感触も久しぶりだと思いながらベッドの外に目をやると、また翔太がカーペットの上に転がって寝ていた。またやってしまたのか、と自分に落胆しながらも、どうすることもできない。どうすることもできない自分にも落胆する。
 翔太に、ごめんね、とベッドの上から小さく呟くと、微かに相槌を打ったような気がした。その瞬間、わたしの口元が少し緩んだのが分かった。それからぼんやりと翔太を眺めていると、結構汗をかいていることに気が付いた。暑くて起きてしまうのではないかと心配になった。きっとわたしの世話をして寝不足だろう。少しでも気持ちよく眠っていて欲しい。
 エアコンのリモコンはここから遠い。壁に備え付けたままだ。と言っても、ベッドから起き上がって五歩くらいだが。しかしその五歩が、わたしにとっては大きい。朝五時に目覚めて、すぐに起き上がって体を動かすだなんて、脳みその思う壷だ。それを許すまいと、起き上がらずにやり過ごしてきたのだ。でも、何故だ、気になる。目の前にいる男性の汗が気になる。寝苦しくないか気になる。予定より早く起きてしまわないか気になる。その、気になる、を解消するのに一番良い手は、エアコンのスイッチを入れることだ。しかし、それはわたしの意地にかなり引っかかる。ここで今まで積み上げてきたものを崩せば、目の前の男性に安眠を差し上げることができる。でも、それをするだけの心の広さが、キャパが、無い。でも、やっぱり気になるものは気になる。しかし、引っかかるものは引っかかる。
 簡単なことだった。起き上がって、スイッチ一つ入れればいいだけのことだった。結局、翔太は予定より三十分早く目覚め、暑苦しそうに寝巻きのTシャツの裾のところをパタパタとウチワにしながら、のそりのそりと自分の部屋へ戻っていった。
 わたしは、やっぱり後悔した。彼が目覚めたら後悔することなど百も承知だったのに。彼が目覚めたこと、そしてそれを阻止できなかった自分に、果てしなく後悔した。役に立たない自分に、折ることのできない意地に、腹が立った。だけど、彼は起きてしまったのだから、それらはもう無意味だった。それはわたしが無意味だと、後ろから指を差されているのと同じであった。
 その一時間後に、彼が、フルーツ切っておいたから朝食に食べなね、と扉の向こう側から一言告げ、仕事に行ってしまうと、自分の薄情さと無意味さがより重く体に圧し掛かった。どうしてこんな風になってしまうのだ、自分。

 その日は一日中雨で、もう何もする気が起きなかった。じっとりとした空気が、重い心と体をより重くさせる。食欲も無かったが、切っておいてくれた果物だけは何としてでも食べようと思い、キッチンに向かった。ひたひたと、歩くたびに足の裏に纏わり付く湿気が気持ち悪い。所々、冷たかったり、生ぬるかったり、温度が安定しないところがその気持ち悪さをまた増殖させる。
 キッチンまで辿り着き冷蔵庫を開けると、果物の乗ったお皿が見えた。それを取り出し机の上に置き、じっと眺めた。白いお皿の上にオレンジとメロンが丁寧に並べられている。少し気分が悪かったけれど、どんなに時間がかかっても、全部食べようと決意した。
 夕方になって、ようやく果物が全部胃の中に入った。決して量が多すぎた訳ではない。オレンジのつぶつぶを数えたり、メロンの皮の模様に規則性を見つけようとしたり、そんなことをしていたから、こんなに時間がかかったのだ。いつもならそれらの行為に夢中になると、食べることが面倒になり遂には忘れてしまうが、今日はなるべく食べることを優先にできた。
 翔太が帰ってくると、亜紀ちゃん! と大きな声でわたしを呼んだ。
「すごいじゃん!フルーツ全部食べられたんだね!」
 翔太のいるキッチンに行くと、子供のように嬉しそうな顔で、こちらを見ながらそう言った。
「初めてだ、全部食べてくれたの」
「・・・・・・うん」
「よくできました!」
 彼の笑顔はまっすぐで心地よかった。
「ちょっと何それ、子供じゃないんだから」
 わたしは少し嬉しくなった。お皿に乗った一人前の果物を、一人で食べるのは当たり前のことだ。そんな当たり前のことができたと言って喜んでくれる彼の姿が、嬉しかった。いつも当たり前のことが当たり前にできないでいるのだから。こんな小さなことを喜んでくれる人がいるのだと、わたしは何だかとても安心した。
 それからは、彼が作ったものを全部食べる努力をした。それだけで、食べるという当たり前のことだけで、彼はわたしをいっぱい褒めた。毎日褒めてくれた。それに彼は、わたしが果物と野菜しか食べないこともこの二週間程度の生活で、すでに理解してくれている。
 ほんの少しだけ、腕に肉が付いた。それを見ると、少しだけ、ちゃんとした人間になっている気がした。


「ねぇ、ちょっといいかな」
コンコンと扉をノックしてから、翔太はわたしの部屋に入ってきた。
わたしの部屋にベッドとテレビ以外に家具は無く、洋服や小物は全てダンボールに詰め込まれている。すでに綺麗に片付けられた翔太の部屋とは逆に、わたしの部屋はいつも引っ越してきたばかりのようだ。
作品名:アシタのソラ 作家名:Quelle