アシタのソラ
「だったら・・・・・・・・・」
わたしは少し戸惑ったが、ナイアガラの滝でバンジージャンプをするくらいの勢いで言ってみた。
「うちに来たら?ここからすぐだし、広いし」
葛西翔太は目をまん丸にして、マジで? と大声で答えた。
こんなに目が大きかったとは、昨日は気が付かなかった。明るいところで、もっと彼の顔を見てみたい。
「うん、いいよ」
彼は、ありがとうございます、と何度も頭を下げた。そしてふたりで夜道を歩き始めた。
今日も街灯に蛾が何匹も群がっていて気持ちが悪い。下を歩くだけで蛾の鱗粉で汚されそうだ。いつもは早足で通り過ぎる街灯の下だったが、今日はゆっくりと歩くことができた。二人だったからだろうか。
「亜紀ちゃんていくつなの?」
「二十三歳」
「ほんと?俺は二十四!一つ違いだね」
二十四歳だったのか。てっきり十八、九かと思っていたら、わたしより年上ではないか。
「でも二十三歳には見えないね。小さいし細いし、十八歳くらいかと思った」
それは今ちょうどわたしも思っていたことだ。
「葛西さんだって二十四歳には見えないよ」
「葛西さんて!翔太でいいよ。下の名前で呼ばれる方が好きなんだ」
わたしは下の名前で呼ぶのが苦手なんだけれど。
「その・・・・・・翔太も若いよね。顔もそうだし、ギター弾き語りなんてしてるとこも」
すると彼は少し迷ったように顔を下に傾けた。
「ギター弾き語りは趣味かな。仕事は別にしてるし」
「あ・・・・・・そうなんだ・・・・・・」
仕事は別にしてるし・・・・・・ なんだか少しショックを受けた。わたしと同類な部分があるのかと期待していたからだ。バイトか何かで食いつないで、どこにも属していないのではと、勝手に想像していた。一人の世界で生きているのかと思っていた。それがどうだ。仕事してるし、だって。さっきまでの熱が少し冷めてしまった気がした。家に来る? なんて言ったのは間違いだったかもしれないと、心の中でほんの少しだけ後悔した。
「うん。でも、ほんとに好きでやってるんだよ。歌手になりたかったけど、なかなか難しくて諦めた。諦めたはずだったんだけど・・・・・・ね」
言葉が出なかった。仕事もしながら、やりたいことがあって、しかもきっちりと挫折も味わっている。この葛西翔太は、尊敬すべき人間様だった。わたしとは正反対の人間様だ。
「亜紀ちゃんは?どんな仕事してるの?」
そう。「仕事してるの?」ではなくて、「どんな仕事してるの?」と聞かれる。当然であるが、この質問はわたしには少し重い。
「うーん、たまに登録制のイベントコンパニオンとかしてるけど・・・・・・基本は何もしてないかな」
彼が驚いたような意味深なような表情で何かを言いかけた時、ちょうど家に着いた。わたしは彼の言葉を遮って、開けるね、と言って鍵を開けた。荷物が無いときの鍵の開け閉めはさほど苦痛ではない。
「全くキレイじゃないけど、どうぞ」
そう言いながら彼を家に上げ、電気を付けた。すると彼は、
「すっごーい!何この広い家!ほんとに仕事してないの?」
と大声で尋ねた。わたしは愛想笑いを浮かべるだけにし、二人分のお茶を入れた。
わたしが住んでいる家は都内のど真ん中にあり、しかも3LDKなのだ。しかしわたしが生活するスペースは極端に限られていて、ベッドとテレビのある部屋とキッチン、トイレ、お風呂、これだけだ。あとの二つの部屋とリビングは使うことなく、掃除もほとんどすることなく、荷物や家具すらも何もなく、ずっと放っておかれている。
「あ、ごめん」
わたしが突然謝ると、彼は、どうしたの? と聞き返した。
「夕飯、サラダしかないや。何か買いに行くならどうぞ」
「ああ、俺歌う前に少し食べたから平気だよ」
そう言ってギターを埃の被ったリビングに置いた。
「汚いけど、好きなとこで寝ていいから。布団はあるよ。それからこれお茶、どうぞ」
「うん、ありがとう」
彼は不思議そうに家を見回した。当たり前だ。だけれど、まだよく知らない人に家の様々な事情を説明しようという気にはなれなかった。
彼のためにリビングに布団を敷いてから、わたしは自分の部屋に入った。トイレと冷蔵庫の位置を教え、好きなように使っていいよ、と言ってから、おやすみなさい、をお互いに言い合った。その後に彼は、ありがとう、を付け加えたが、わたしは返事をしなかった。
明るいところで見た翔太の顔は、まん丸い目と薄い唇が印象的な、どこからどう見ても童顔だった。それを思い出しながらベッドに入ると、少しの安堵感が胸に舞い降りた。何故なんだろう。しかしそれと同時くらいに、あんな汚い埃まみれの部屋で果たして彼は眠ることができるのか心配になった。でも、野宿よりはまだマシだろうと楽天的に考えることができた。それは多分、彼のおおらかな雰囲気がそうさせている。
扉一つ隔てた向こう側に人間がいる。しかも男性がいる。ずっとこの広い家で一人で暮らしてきたわたしにとっては、これはものすごいことなのだ。目が冴えて、一時を過ぎても眠れない。徐々に闇が色を変える。黒から紺に、そして深緑に。三時を過ぎ、緑に近くなったところでようやく眠ることができた。
それでも朝五時に目が覚めると、わたしの部屋に何故か翔太がいた。カーペットの上ですやすやと眠っている。襲われたような形跡はない。どういうことだ。なんでここに? 今すぐたたき起こしてこの訳を問いただしたい気持ちになったが、今日もやはりこの脳みそへの復讐のため、まだまだベッドからは起き上がれない。七時過を過ぎた頃、翔太が目を覚ますと、いきなり顔をしかめてこちらを見た。
「なぁに?」
わたしは不機嫌そうに聞き返した。
「亜紀ちゃんさ、あれって毎日なの?」
わたしは全く意味が分からなかった。何が毎日? 五時起き? わたしが翔太に問いただしたかったのに、何故かわたしが問いただされている。
「死にたくないとか、生きたくないとか、わたしなんかいらないとか、よく分かんないことを夜中一時間くらいずっと泣きながら叫んでたんだよ。びっくりして起きて様子見に来ちゃった」
何それ? わたしはそんなことを泣きながら叫んだ記憶などない。
「わたし、そんなことしてないよ、知らない。夢でも見たんじゃないの?」
「いいや。はっきり覚えてる。それに、少し怖かったし・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
確かにそれらの言葉はわたしが日々考えていることではあるが、まさか夜中寝ぼけて叫んでいるなんて、夢にも思わない。そんなの知らない。それはわたしじゃない。
「どこか具合でも悪いの?それとも、ほんとは俺を泊めるの嫌だった?」
「ううん、そんなことない」
具合なんて日々悪い。泊めたのは、確かにちょっと冷めたところもあったけど、別に嫌ではなかった。むしろ少しドキドキしてたし、得体の知れない安堵感まで味わっている。まさか自分がそんなことをしていたなんて、今まで全く気付かなかった。わたしは呆然として、また全てが嫌になる感覚に襲われた。