アシタのソラ
その時初めて、今日が木曜か金曜のどちらかなのだと知った。
「ふうん。分かった」
やっぱり、わたしには愛想が足り無すぎる。
「名前、教えてもらっちゃダメかな?」
「いいよ。雨宮亜紀」
なんて軽い男なんだ。初対面の女の名前を聞くとは。それに答えるわたしも軽い女か。
「亜紀ちゃんかぁ。可愛い名前だね。今日は本当にありがとうね。それじゃあまた」
軽々しくちゃん付けで呼ばれるとは思わず、少し腹が立ったけれど、去っていく後ろ姿を見ると何故かとても寂しくなった。後姿はすぐに夜に隠れて見えなくなり、今日が木曜ならいいのにと思った。
コンビニで買い物を済ませ、わたしはぼんやりと夜道を歩いた。街灯には蛾がチリチリと群がり、回収日前に捨てられたゴミ袋からはガサガサと音が聞こえてくる。ねずみだろうか。それにしても、気持ちが悪い。わたしは何かに追われるように早足で歩いた。本当は歩くのも嫌なのだが、歩かなければ家まで辿り着けない。よしんば家に辿り着いたとしても、買い物袋を持ったまま鍵を開けるのが、わたしは大嫌いだった。何故かその行為にあまりにイライラしてしまう。誰にでもできる当たり前のことなのに、爆発しそうなほどイラついて、家に入った時にはもうぐったりだ。本当にわたしはダメ人間なのだ。
冷蔵庫にさっき買ったグレープフルーツジュースとサラダを入れると、すぐさまベッドに寝転がった。全く使われていない携帯電話で今日の曜日を確認してみると、なんと木曜だった。わたしは思わず、ふふっ、と笑い、葛西翔太のことを思い出してみた。しかし、夜だったためか、歌に聴き入りすぎていたためか、顔がよく思い出せない。体は細身で、色は特定できないがチェックのシャツにジーンズを履き、髪は確か短髪だった。明日は顔を見てやろうと、少し明日というものに対する希望が湧いた気がした。こんな些細なことで希望だなんて、なんと単純な。しかし全てが嫌で仕方ないよりよっぽど健康だと思い、今日はお風呂に入ることにした。三日に一度くらいしか入らないお風呂。昨日入ったばかりなのにもうすでに入ろうとは、なんて健康なんだ、自分。
服を脱いで、脱衣所の鏡の前に立ってみた。胸はほとんど無く、アバラが浮き出ていて、どう考えても細すぎる。まるで鶏がらではないか。昔はこの細さを手に入れるために様々な努力をしたものだったが、今となってはその努力など無駄なことだったと分かる。運動しようが、痩せるというオイルを塗ろうが、そんなことでここまで痩せることはできない。果物と少量の野菜たけを摂って、炭水化物も脂質も摂らなければ簡単にこうなるのだ。それを今、嫌と言うほど実感している。しかし炭水化物も脂質も摂り入れる気は全くない。
わたしがお風呂を嫌う理由は三つ。一つ目は、濡れるのが嫌。要するに、犬や赤ん坊と同じである。二つ目は、髪を洗うのが嫌い。だから美容師を心底尊敬する。濡れた髪の毛がわたしの手や体に付いただけで悲鳴をあげたくなるのだ。三つ目は、体や髪を拭くのが嫌。タオルが濡れてしまうから。
という以上三つのどうしようもなく我が儘な理由によってお風呂を毛嫌いしているのである。しかし今日は少し違う。なんとなく、お風呂を楽しみたい気分だ。こんなことは稀にしかない。この貴重な時間を大切にしなければいけない。
お風呂から上がり、髪を乾かし、テレビを付けた。カチカチとチャンネルを回してみたが、どれもくだらないものばかりで一分ともたずにテレビを消した。いや、くだらなくはないのだろう。くだらないなどと感じる自分の感性がくだらないのだ。というわけで、テレビを見ることに失敗したわたしは就寝までの二時間をどうやって過ごせばいいのかを考えた。今時刻は十一時である。わたしは毎日一時に寝ることにしているので、あと二時間が邪魔なのだ。「生」をダラダラと垂れ流しにしているのと同様に、わたしは「時間」も垂れ流している。葛西翔太のことを思い出そうとしても、さっきの情報くらいしか残っておらず、残念なことにあれだけ感激した歌もあまり覚えていない。なんと薄情な女なんだ、わたしは。
仕方なくわたしはベッドの中に入ることにした。そしてひたすら明日が来ることを待った。いつものわたしなら、明日が来ることが嫌で仕方なかったのに、やっぱり今日のわたしは少し変だ。早く明日の夜にならないかとそわそわしている。
少しずつ眠気がわたしを別の世界へと誘う。黒くて柔らか道が目の裏側から脳へと続く。いつの間にかわたしはその道に入り、別世界から手を引っ張られる。そこがどこなのかは分からない。そして五時になると突然現実にポイっと戻されるのである。その度に腹を立て、自分の脳みそにささやかに復讐をするのだ。
今夜は昨日ほど蒸し暑くない。闇は微妙に緑がかっていて、少し明るさがある。少し風も吹き、心地よい空気だ。今日はめずらしくスカートを履いて、公園に出かけた。また来てくれたら嬉しいな、と言われてひょいひょい姿を現す自分に恥ずかしさを覚えるが、それよりもまた歌を聴きたい気持ちの方が何十倍も大きい。公園に到着すると、また木の陰からこっそりとベンチを覗き見た。葛西翔太はギターをケースから出しチューニングをしている。風に運ばれてくるチューニングの音さえも清々しく聴こえてくる。それは、彼が心の底から清々しい人間だからだろうか。
わたしは歌が始まってもすぐには出て行かない。待っていたなんて思われては嫌だもの。一曲目が終わり、二曲目が始まる頃に、偶然を装うようにふらりと公園に入った。そして一瞬目が合うと、彼はニコッと微笑み声を大きくした。やっぱり彼の声は晴天だった。空へ昇る声に、わたしは身震いをした。夜じゃなくて、晴れた昼間に草原で歌ってほしいと思った。観客はわたしひとりだったが、それでも彼は一生懸命に歌っていた。一本のまっすぐな白い線が、空に向かって伸びるように。
小さなコンサートが終了すると、わたしは小さく拍手をした。彼は照れくさそうに頭を掻き、ありがとう、と言ってギターを終い始めた。
「まさか本当に今日も来てくれるなんて思ってなかったよ。本当にありがとう」
嬉しそうにそう言って、彼はベンチに腰掛けた。
「でもどうしてこんな辺鄙な公園で歌ってるの?大通りとか行けばもっとたくさんの人に聴いてもらえるでしょ」
「そうなんだけど・・・・・・取締りが厳しくて。注意されちゃうんだ」
「そっか・・・・・・それは残念ね」
「でもいいんだ!ここでもこうやって、亜紀ちゃんみたいに聴きに来てくれる人が増えるかもしれないしさ」
名前を覚えていてくれたことに驚き、ドキリとした。もしかしたら顔が赤くなっているかもしれない。やっぱり、昼間じゃなくて夜でよかった。
「でも俺、今日はここで野宿なんだよね」
いきなりの発言に、わたしは一瞬固まってから発言した。
「はあ?なんで?」
「ルームシェアしてるやつがいるんだけどね。あ、もちろん男ね。そいつの彼女が今日泊まりに来るらしくて、俺はちょっと邪魔なわけ。漫画喫茶行くお金ももったいないし、寒い季節でもないし、ここで一晩明かそうかと思って」
なんというお人好しなんだ。そのために自分は野宿するなんて。そのカップルに腹が立つ。