アシタのソラ
どうしてわたしは息を吸わなければならないのか。また、吐き出さなければならないのか。息なんてしたくない。何も食べたくない。何も見たくない。何も聞きたくない。寝たくない。排泄したくない。動きたくない。生きたくない。だからといって、お腹が空くのは嫌だ。何も見えない真っ暗な闇は嫌だ。何も聞こえない無音の世界は嫌だ。寝たいし、出すものは出したいし、本当は動きたい。死にたくない。
そう、死にたくない。しかし、生きたくもない。何もしたくないけれど、何もしないのは嫌なのだ。こんなことを考えていること自体、嫌気がさして仕方ない。
わたしは常に分裂した自我の中で生きている。両極端な二つの思考に、欲求に挟まれ、二進も三進もいかない状態を続けている。
わたしは毎日朝の五時に起きる。自らの意思で起きているのではない。勝手に脳みそが起きるものだから、仕方なくそれに付き合っている。しかしそう簡単にはベッドから出ない。それはある意味自分の脳みそへの復讐である。こんな時間に起こしてくれた迷惑な脳みそへのささやかな復讐である。しかしこの復讐には問題があった。何もしたくないわたしは、ベッドの中で何もしていない状態すらしたくないのだ。
もう全てが無くなればいいのに。
二十三歳にもなってまともに仕事もせず、全てに嫌気を感じながら、ただただ「生」を垂れ流しにしている自分の存在価値など、ゼロだと思った。いや、むしろマイナスだ。不不必要な人間のために大切な酸素が二酸化炭素に変えられてしまうだけで、もうマイナスだとしか思えない。ああ、やっぱり、わたしは不必要だ。
そんなことをベッドの中でうだうだと考えている間に、時計の針は八時を指していた。わたしは起き上がり、冷蔵庫の扉を開け、果汁100%オレンジジュースを手に取った。そして一リットルのペットボトルに半分くらい入ったオレンジジュースをラッパ飲みして、大きくため息を吐いた。生きたくないくせにこんなビタミンがたくさん入ったものを飲むわたしってどれだけ傲慢なのだ。頭の中のわたしが責め立てる。お前なんか今すぐここで首でも吊って死んでしまえばいいのに。嫌だ、そんなこと言わないで。そうすれば全てが無になり楽になれる。どれだけ傲慢なのだと考えることもないし、必要もない。考えることすら嫌なら、それを放棄すればいいだけのこと。嫌だ、考えるのは嫌だけど、放棄するのも嫌だ。だから、死ぬのも嫌だ。なんて我が儘。生きることが嫌なくせに、死にたくもないなんて、我が儘にもほどがある。そんなことは分かっている。わたしは我が儘でしかも無意味な存在。分かっているなら早く死んでしまえ。嫌だ。死にたくない。だけど、生きたくない。どうすればいいのか、分からない。
飲み干して空になったペットボトルを乱雑にゴミ箱へ捨てた。ゴミ箱の中にはちり紙やレシート、ポストに入っていたピザ屋や寿司屋のメニュー、何日前に食べたのか分からないイチゴのヘタなどがごちゃまぜに入っている。顔を近づけると、少し酸っぱい臭いが鼻の奥を刺した。吐き気がする。ゴミみたいなわたしが、こんなにゴミを出すなんて。こんな臭いを発生させるなんて。わたし自体がゴミなのに、どうしてゴミを出すのだろう。ゴミを出すことを許された人間であるはずがないのに。ゴミを出していいのは、ちゃんと生きている人間だけだ。だからわたしにその資格などない。ない、ない、ない。なのにどうして、この箱の中にゴミがたくさん入ってるんだろう?
箱の中に顔を入れると、もっと酸味のきつい臭いがした。鼻の奥が痛い。その臭いが肺に達すると、体中が拒否反応を示すように、胃から何かがこみ上げてきた。一瞬にしてそれは胃から食道を通り、オレンジ色の液体が口からいっきに溢れ出た。胸がヒリヒリと痛む。息が乱れる。口の中が酸っぱい臭いと味でいっぱいだ。箱から顔を出し、外の空気を一度吸ってから、また箱の中を覗き込んだ。オレンジ色の液体が、トロトロとゴミの間に川を作って流れたり池を作って溜まったりしている。ああもう、あまりの醜さに、目が回る。
ゴミがゴミの中に吐瀉物をまき散らすなんて、どうかしてる。ほらやっぱり、死んだほうがマシだ。こんなゴミを発生させるわたしは、この醜いゴミよりも無意味だ。無意味? それは生きてる意味がないってこと? 生きてる必要がないってこと? 無いに決まってる。見てごらんよ、この箱の中の醜いものを。お前はこれ以下なんだから。こんなに醜いもの以下なんだから。生きてる意味があるわけないだろう。必要があるわけないだろう。
早く、早くこれを処分しなきゃ。こんなものが目の前にあるからいけないんだ。
わたしは急いでゴミ箱の中身をこぼさないようにポリ袋に入れ、きつく入り口を結んだ。それから焦ってゴミ置き場にそれを捨て、部屋に戻った。部屋の中はまだ少し酸っぱい臭いが漂っていたが、わたしはそれを振り払うように首を左右に振り、ベッドにもぐりこんだ。そしてベッドの中で意味もなく何時間も泣き続けた。
あのゴミも、この涙も、全て無駄な産物だ。
朝から晩まで頭の中の自分と会話し疲れ果てたわたしは、つくづく生に対して傲慢だとは思いながらも、果汁100%ジュースと少々の食料を買いに近くのコンビニまで出かけた。ひとしきり泣いた後は、少し気持ちが穏やかになる。
蝉が鳴くにはまだ早い季節ではあるが、とても蒸し暑い夜だった。湿った暗闇が皮膚に纏わりつく。闇は不思議だ。闇はわたしを吸収し、またわたしは闇を吸収する。わたしは闇イコール真っ黒ではないと思っている。闇とは全ての色に存在している生き物のようなものだ。光が目くらましで闇を見えなくさせるが、本当はいつもどんなものの中にも闇は存在している。
そんな闇に少し同情しながら歩いていると、通りがかった公園から突然ギターの音が聴こえてきた。わたしは、何だろう? と思いながら公園を木の陰から覗くと、ひとりの青年が公園のベンチでギターの練習をしていた。物好きなやつがいるものだ。こんな蒸し暑い夜に一人でギターの練習とは、なんと青春を謳歌させたい願望が強いのだろうか。こんなひねくれた考えしかもてない自分とは全く別の、遥か遠い世界に生きる人間のように感じ、わたしはすぐに後ろを向いて歩こうとした。しかし、その瞬間、その青年は自分のギターに乗せて歌を歌い始めた。わたしは驚いた。その声のなんと清々しいことか。まるで晴天だ。この湿った夜に突き抜ける青空が見えた。
気が付くと、わたしはその青年の前に座り込み、コンビニでジュースと食料を買うことをすっかり忘れ、最後まで彼の歌を聴き入ってしまったのだった。
青年がギターを片付け、帰ろうとしているにも関らず、わたしはまだその場所から動く気にはなれなかった。
「最後まで聴いてくれてありがとう」
屈託のなさそうな、歌声と同じような突き抜けた明るい声で青年はわたしに話しかけた。
「別に。暇だったから」
何故こんな愛想のない答えしか出来ないのだ、自分。素敵だったとか、青空みたいな声に感激したとか、そんな可愛らしい答えが何故口から発せられない。
「でも嬉しいよ。今日はありがとう。俺、翔太。葛西翔太。木曜と金曜はここに来て歌ってるから、また聴きに来てくれたら嬉しいな」