優しい嘘~奪われた6月の花嫁~
いつものようにエントランスを抜け、エレベーターに乗り、七階を押す。マンションは八階まであるが、紗理奈は七階で降りる。高級ホテルを彷彿とさせる瀟洒な内装の廊下を少し歩き、すぐ手前の一号室が紗理奈の住まいだ。鍵を使ってドアを開けると、玄関だけがほの明るい。ドアは自動でロックされるので、通勤用のパンプスを脱ぎスリッパに履き替える。
短い廊下を進んでリビングのドアを開けた途端、暗闇が紗理奈を包んだ。足許をぼんやりと照らしている小さな灯りに眼をとめ、小さな声で挨拶する。
「ただ今、チーズ」
足許には、等身大の犬の置物がある。陶器製のマルチーズはあたかも本当に生きているように精巧に作られており、その犬が両脚で小さなソーラーライトを抱えている。電池要らずで、暗くなると自動で室内を照らしてくれるので、かなり便利なソーラーライトだ。
色々な種類の犬があったが、紗理奈は自分の好きなマルチーズを選んだ。通販で買ったものだ。
別に名前まで付ける必要はないのだが、何かペットを飼いたいと思っていたので、ペット代わりに?チーズ?と付けた。マルチーズだからチーズ、安易なネーミングだと自分でも思う。
「チーズ、今、帰ったよ」
もう一度、声をかけても、陶器の犬は黒い眼でこちらを見ているだけでワンとも啼かない。当たり前だ。紗理奈は自虐的な笑みを浮かべ、溜息をついた。
疲れ果てて帰宅しても、出迎えてくれるのは飾り物の犬だけ、それでもチーズに心癒されることもあるのに、その日は溜息だけが零れた。
紗理奈はリビングを抜けて寝室に入った。通勤着のまま、デスクに向かう。パソコンを立ち上げている間に手早く普段着のスウェットに着替えた。
画面を覗きネットに繋いで、受信メールをチェックする。大量のメールの中に差出人がコッコのものがあった。
「―あった!」
紗理奈は歓声を上げ、コッコから来たメールを読んだ。
―そろそろ帰った頃かなと思って、メールしてます。今日も一日、お疲れ。
KOCCO
紗理奈もすぐに返信する。
―今、帰ったよ。今日も大変だった。途中で他課から異動してきた後輩がいてね、今、指導の真っ最中なの。
ラナン
初期の頃は丁寧な口調であったのが、今ではすっかり砕けた口調になっているのが二人の親しさを示していた。
どうやら、コッコは返信メールをすぐに見たらしい。即効ともいえるべき速さで返信が来た。
―それは大変だね。でも、優しく厳しいラナンさんにきっちり仕込まれたら、その後輩もバッチリだよ。
KOCCO
今夜はコッコはバイトの開始がいつもより早い時間だということで、その日はいつもより短い時間でメール交換は終わった。
パソコンから離れ、紗理奈はベッドに転がった。両手両脚を伸ばして、思いきり伸びをする。ふと思い出して起き上がり、枕許のナイトテーブルから小さなフレームを取った。白い枠にはオーストラリアのホワイトヘブンビーチの写真が収まっている。
どこまでも蒼く染まった風景は、蒼い空と海が続き、真ん中にひとすじの白い道が走っているように見える。まさに、紗理奈が夢で見た風景そのものだ。あれとまったく同じ写真を幸運にも通勤途中の駅地下の雑貨店で見つけたのは、つい数日前のことだった。
紗理奈はその大好きな海の風景をひとしきり眺めてから、また宝物のように後生大切そうに元の場所に置いた。またベッドに仰向けに転がり、見るともなしに天井を眺めた。
いつもなら、この時間はまだコッコとメールで話しているはずだ。今日は彼女のバイトが早くて、あまり話ができなくて淋しい。そこまで考えて、紗理奈はハッとした。
―私、淋しいって―。
顔も知らない、どこに住んでいるのかも知らないコッコという人間は紗理奈にとっては実体のない友人ともいえた。コッコが嘘をつくような子ではないのは信じているけれど、現実として、彼女について知っているわずかな事柄でさえも事実であるかどうかは判らないのだ。
なのに、コッコという女の子は紗理奈の心の奥底にどっかりと居座って、その存在感は日増しに大きくなっている。コッコのような存在を強いていえば?メル友?というのだろうが、どこの誰とも知れないメル友にここまで依存してしまうのは、どうかしている。
彼女とメールのやりとりを始めて丁度三週間になる。その間、数え切れないほどのメールが二人の間を行き来し、誰にも話せないことも話し合った。
だけど、このままで良いのだろうか。仕事で疲れて帰ってきたときもコッコからのメールを見つけただけで元気になり、いつしか彼女からのメールが届くのを心待ちにしている。最早、彼女とメールで話すのが一日の中で最も愉しい時間とすら思うようになっていた紗理奈だった。
もし、コッコから突然メールが来なくなったら、随分とがっかりすることだろうし、日々にも潤いがなくなることだろう。だが、コッコが明らかにしているのはハンドルネームと二十歳であること、トリマーを目指している専門学校生であることだけだ。
彼女には明らかに紗理奈に自分が何者であるかを告げる気はない。紗理奈自身は女同士で歳も近いことだし、これだけ気が合うのだから、一度実際にコッコに逢ってみたいと思うようになっていたのだけれど、どうやら向こうに、その気はなさそうである。
何度かは逢ってみないかと言い出しそうになり、危うくそれを口に出さないできたのだ。プライベートを明かしたくない相手の領域に無理に踏み込もうとすれば、それはルール違反だし、相手も警戒して去ってゆくだろう。
紗理奈はコッコを失いたくなかった。そこで小さく首を振る。
何をつまらないことを考えているのか。こんなことをしている場合ではない。今はどこの誰とも知れぬメル友の心配をしているべきではないだろう。秘書課長からも言われたように、柿沼とのことにもそろそろ決着をつけなければならない。進むべきか、潔く引くべきか。紗理奈はまだ決断ができていなかった。そこに携帯電話が鳴った。
着信音がエグザイルの?ティ・ア・モ?だというのも何かあまりにも定番すぎてというか、そのまますぎて笑いたくなる。?ティ・ア・モ?は不倫中の女が帰ろうとする男の背中を見つめた心境を歌ったものだからだ。
携帯の方に来るメールは柿沼しかいない。紗理奈は恐る恐るベッドの上に放り出したままのショルダーバッグから携帯を出した。メタリックブルーの二つ折り携帯を開く。
―久々に休みが取れそうなんだ。金曜の夜、大阪まで出てこないか?
英悟
やはり、柿沼からだった。紗理奈は久々に浮き浮きとした高揚感が身体を包むのを自覚していた。
柿沼が出向している子会社は大阪にある。今は自宅から大阪に通っているはずだ。ここではなく大阪でデートというのは人眼をはばかっているからかと一瞬勘繰りそうになったが、悪い方にばかり考えていても仕方ない。とにかく柿沼の方から一歩歩み寄ってきたのだから、事態は良い方向へ向かっていると考えて良い。
作品名:優しい嘘~奪われた6月の花嫁~ 作家名:東 めぐみ