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LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆)

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 だけどその夢は叶わなかった。目の前にいる片岡誓は、こんなに近くにいるのに遥か遠い…俺の手の届かない場所にいる。こんなくらいなら十年前のあの時、俺が彼について行けば良かったのか?

 卯藤の瞳から涙が溢れた。
「いや…それでもきっと…だめだった」
「瞠…?どうしたんだ」
 彼の涙と言葉の意味するところがわからず、片岡は思わず近づいて卯藤の頬に触れた。それでも卯藤の涙は止まらなかった。

 二人でこのリスボンにたどり着いたからこその…あの日々だったのだ。甘い菓子、丘からテージョ河を望む景色、晩秋の空の色が二人を繋ぎ合わせ、寄り添わせた。ここで生まれた「二人」の関係は、きっと他の場所では生かされないだろう。

 どうしても涙が止まらない。
 無様な話だ。結局俺はこの街で…片岡誓のことは思い出の中だけの存在だと?全然違ったじゃないか。
 待っていたんだ。彼が戻ってくるのを。本当はずっと…
 でも、再びこの街へやってきた君はもう…俺の所には戻らない。

 卯藤の頬にそっと触れていただけの片岡の指に、ふいに力が加わった。   
 両手を添えて卯藤の顔を間近まで引き寄せる。何をするのか…と、卯藤が問いかける間もなく、片岡の唇が卯藤のそれに重ねられた。卯藤がどうにか逃げようともがくほど、片岡の腕は卯藤を戒めて、彼の唇と舌で執拗に責め苛まれた。
「…なんで…」
 ようやく唇を放された卯藤が問いかけても、片岡は無言だった。彼は辺りを見回し、店の片隅に扉があるのを見つけた。その場所から建物の階段に続く扉だと気がついて、彼は卯藤の腕を掴み扉の奥へいざなった。

 店の二階にある卯藤の部屋のベッドの上で、二つの人影が絡み合う。
 何故、今更?片岡の真意を計り兼ねた卯藤の疑問の言葉も、拒絶の言葉にも片岡は一切答えることはなかった。
 どうして…
 卯藤は声もなく問いかける。
 もう俺には何の感情も残していないはずなのに、こんなこと…?
 誓とは…セックスだけの関係なんて持ちたくないのに。
 だけど、どうして…?

 何故君はそんなに、切ない瞳をして俺を見つめてくるんだ?

そして俺は、不本意に彼に侵されているはずなのに…
 彼の腕に抱かれて、自分の中でほとばしる彼の灼熱を受け入れることに歓びを見いだしてしまうのだ。

 今となっては、その刹那の歓びでしかないというのに…?

          
 既に夜の九時に近かった。
 何かから逃れようとするかのように、片岡は足早に夜のアルファマの路地を駆け下りていく。カテドラルまで戻ってきた辺りでバスに乗り込んだ。タクシーの拾えそうな場所まで移動するつもりだった。
 車内の空席の一つに座ると、片岡は深く溜息をついて目を閉じた。
 …自分はもう三十五歳で、彼も二つしか違わないはずだ。それなのに過ぎ去った年月が信じられないほど彼の肌は白く滑らかで、四肢は相変わらず華奢でしなやかだった。思い出すだけで身体の奥が熱くなる。

―どうして君はここに戻ってきたんだ?
 自分の腕の中で、喘ぎ混じりにあの男が問いかけてきた言葉が蘇る。
 答えることはできなかった。自分でもわからなくなってしまったのだ。

 仕事のため…それに一度は暮らしたことのある街だから、多少は事情がわかる。それが片岡が再びリスボンへ来た理由のはずだった。
 ところが、卯藤瞠との再会によって全てが狂い始めていた。その前にもふとしたことで彼との記憶が蘇ることはあったが、あの日から…彼のことが頭から離れなくなった。そんな状況に耐えられなくなって、つい卯藤のカフェに足を向けてしまったのだ。
 二人の関係はもう過去のことだ。今更どうともならないだろう。卯藤はきっとそう言って片岡を追い返すはずだ。彼自身そう思っているつもりだった。それで綺麗さっぱり忘れられる。
 だが、予想とはまるで違う結果になってしまった。
 片岡を見つめる卯藤の瞳から涙が零れるのを見て、彼がその心のうちに…未だ自分に対して何かを残していることに気がついた瞬間、片岡は腕を伸ばして卯藤を捕らえていた。
 自分のしたことが許されるはずがない。
 目の奥がずきんと痛む。片岡は思わず瞼を右手で押さえた。痛みとともに生まれた嫌悪感がじわりと脳裏に広がっていく。だが、二度としてはならないと自身を責める一方で、彼にもっと触れたい…その誘惑に引きずり込まれそうだった。
 
 ―どうして、リスボンに戻ってきた?
 もし今ここでもう一度問われたなら…
 怖い。
 取り返しのつかない言葉を口にしてしまいそうだから。


          四
 当時、片岡誓の女性店員の間での人気は絶大だった。今から四年ほど前になるだろうか?芸能人も顔負けの容姿でその頃はエリも名前を聞いた事があるような有名なIT企業の取締役だったが、店員に対して一切横柄な態度を見せなかったからだろう。片岡の左薬指に指輪がないことを確認してひとしきり盛り上がっている店員たちの様子を横目で見ながら呆れて溜息をついたものだ。その時はまだ別の男と付き合っていたから、エリにとって片岡は上客でいい男というだけのスタンスだった。
 後輩の店員の中で、男性客に取り入るのが上手い女性がいた…ありがちな話で同僚からの評判は芳しくなかったが。彼女は当然片岡を狙って、彼が来店すると甲高い作り声を出してあの手この手で取り入ろうとしたが、片岡はごく感じのいい笑顔を浮かべながら『自分の買い物は三上副店長に相談したいので』と体よく遠ざけてしまった。あの時は自分が指名されたという優越感よりも、あの店員の魂胆を片岡が見抜いたことを小気味よく感じたものだった。だが片岡は店に訪れるようになって二年ほどでヨーロッパの企業に誘われて転職するとエリに告げ、それきりになってしまった。
 その片岡と現在、婚約をしてリスボンで新居探しをすることになったのは、一年程前にパリの本社会議に、産休の店長の代理で出席した時に宿泊していたホテルのバーで偶然再会したのがきっかけだった。自分も三年以上付き合っていた男と別れた後だったが、片岡も…日本で結婚を考えていた女性が癌で亡くなった話をその時初めて聞いた。銀座の店に来る時はいつも明るく話していた彼がその時は口数も少なく、瞼を少し伏せ憂いを帯びた眼差しで辺りを見つめていたのが印象に残っている。どうしても手放せないと言っていた煙草もその時にきっぱりやめて、転職したのも亡くなった恋人の母親に諭されたせいだという。毎日仏前に手を合わせに来る彼に、「これ以上過去に囚われるな、ここにはもう来ない方がいい」と言われたらしい。それでもまだ完全にふっ切ることができないと苦笑いする片岡にエリは苛立ちを覚えた。
『もうこの世にいない人のことをどれだけ考えたって仕方ないでしょ?だったら…いっそ私と付き合って』
 …自分でも口から出た言葉に半ば驚いたが、しまったとも思わなかったのだから多分本心だったのだ。考えた事もないはずだったのに。
 片岡も何かきっかけを求めていたのだろう、店長の代わりにパリ出張が増えそうだからというエリと、次も会う約束をしたのだった。